2023/09/28
7. 現実に戻ってくる価値はあるのか
Text : Naohiro Nishikawa
Photo : Daiki Miyama
6年ぶりの長編小説となる村上春樹の『街とその不確かな壁』と、10年ぶりの長編アニメーションとなる宮崎駿の『君たちはどう生きるか』は、世界的に人気の二人の日本人作家の長く待たれた長編という背景だけではなく、内容から結末に至るまで驚くほど共通点の多い作品であった。
村上春樹の最新作となる『街とその不確かな壁』は、そのタイトルの示す通り実に43年前に書かれた中編小説『街と、その不確かな壁』を下敷きにしている。村上は、これまでも発表済の短編小説を拡張し長編小説にしたり(『蛍』からの『ノルウェイの森』や、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』からの『ねじまき鳥クロニクル』など)、短編の『めくらやなぎと眠る女』を改編した『めくらやなぎと、眠る女』など、自身の過去作を長編に組み込んだり改編し違うバージョンとして発表するということを度々行っている。
中編小説『街と、その不確かな壁』は1980年に三作目として書かれたものであるが、村上はその内容を気に行っておらず、本人の意向により単行本や全集にも収録されていない「幻」の作品となっている。しかしながら村上はその壁に囲まれた「街」に強いこだわりがあるようで、度々、作品に織り込んでいる。長編としては四作目となる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という別々の物語が交互に進むが「世界の終わり」のパートは『街と、その不確かな壁』で書かれた壁に囲まれた街の話だ。また『海辺のカフカ』は当初『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編として「街」やその壁の外の森に取り残された人たちを書こうとしたがうまく書けなかったとも語っている。
これらが示すように『街とその不確かな壁』は村上がこれまでずっと抱えていたが、技術的な問題や、その時々の別の仕事のために書けなかった「街」について、小説家としての技術を極めた晩年のこの時期に、正面から挑んだ小説といえるだろう。
一方の宮崎駿の『君たちはどう生きるか』も宮崎がこれまで抱えていたが、描けなかった幼少の頃の自身の置かれた環境や母への想いを反映させた自伝的な作品と言えるだろう。主人公である眞人は父親が航空機関連の会社を経営しており裕福であることや、戦争で東京から田舎に疎開すること、この作品で非常に重要になる母親への想い(作中では戦時中に亡くなり父親は母の妹と再婚することになるが、実際の宮崎の母親は戦時中には亡くなってはおらず長年病床に伏していたそうであるが)など、宮崎自身の幼少期の体験と重ねることができる。
長編アニメーションという多くの人が関わり、莫大な制作費と時間をかけて製作する決して失敗できないプロジェクトにおいて、これまでの成功の実績により、何をやっても許されるという環境を得た今だからこそ、そして最後の作品になるかも知れないからこそ、長年抱えていたが描けなかった自身の想いに決着を挑んだのであろう。
『街とその不確かな壁』では、主人公である<ぼく>が17歳のときに高校生エッセイ・コンクールの表彰式で出会った別の学校の一つ年下の少女に恋に落ちる。<ぼく>と電車で1時間半ほど離れた街に住む少女は手紙の交換からはじめ、やがて二人で長い時間を語り合う会う仲になる。会話を続けるなかで少女は「壁に囲まれた街」という少女が空想の中で作り上げた街の話をする。少女はこちらの世界の自分は本当の自分ではなく、本当の自分は「壁に囲まれた街」に住んでいるのだと打ち明ける。こちら側にいる私はあちら側の「街」に住む本物の私の影にすぎないのだと。
そして、少女は<ぼく>に宛てた長い手紙を最後に現実のこちら側の世界からこつ然と姿を消すことになる。<ぼく>は、こちら側の世界で恋に落ちた少女を永遠に失うのだ。
この少女の空想から生まれた「街」と現実の世界をつなぐ重要な役割を果たすのが「図書館」だ。<わたし>は向こう側の世界である「街」の「図書館」で夢読みとして働く。「街」では本物の少女も「図書館」で働いており、夢読みの<わたし>の手伝いのようなことをしている。一方、現実の世界で少女を永遠に失った<ぼく>は孤独のまま中年の<私>になり、45歳のときに長らく勤めた出版社を退職し、地方都市の「図書館」の館長として働くことになる。そこでも「図書館」はあちら側の世界とこちら側の世界を結ぶ特別な場所として機能する。
『君たちはどう生きるか』においても、眞人は入院中の母を空襲の火事で亡くす。幼少の眞人にとって母という存在は特別でかけがえのない存在と言えるだろう。その後、眞人の父親は実母の妹と再婚し、眞人は疎開先として父の故郷の大きな屋敷に、父と新しい母と一緒に暮らすことになる。
屋敷のそばには大叔父が立てた塔の形をした「書庫」がある。そこには大量の書物が保管されているが老朽化が激しく、眞人は近づかないように言いつけられている。『君たちはどう生きるか』では、この「書庫」が、『街とその不確かな壁』の「図書館」がそうであったように、こちら側とあちら側をつなぐ役割を果たす。
ある日、眞人の継母であるナツコが夕方になっても戻ってこなくなる。ナツコが森に入るのを見ていた眞人は、その足跡を追い「書庫」に入る。それをきっかけに、あちら側での冒険とファンタジーの、宮崎駿がこれまでに描いてきたあの世界に迷い込む。その世界では死んだ母も継母も若く美しく、屋敷で使いとして働く婆も若く勇ましい姿で描かれる。
世界的に人気の作家が抱きつづけたがこれまで書けなかったテーマに晩年になって取り組んだという背景。恋に落ちた少女/母を永遠になくしたこと。図書館/書庫という大量の書物、あるいは物語であり過去の記憶が保管された場所がこちら側とあちら側を繋ぐ役割を持つこと。あちら側には、こちら側では永遠に失った特別な存在である少女/母が存在していることと、シンクロニシティと言うべきか、両作はまるで申し合わせたかのように多くの部分が奇妙に一致する。
その極めつけは両作の物語の終わらせ方だ。<わたし>も眞人も、少女/母がいる、あちら側の世界を捨ててこちら側に戻ってくることを選ぶ。あちら側にはある種の理想の世界があるというのにだ。結局のところ本のページの最後に到達すれば、スタッフロールが流れれば我々読者/観客は強制的にその小説/映画の世界を追い出されこの現実の世界に戻ることになる。それにも関わらず、小説の映画の中で、むこうの世界から、こちらの現実の世界に戻る必要なんてあるのだろうか。そもそも、この現実に戻ってくる価値なんてあるのだろうかと思う。
村上は1949年生まれで、1968年に早稲田大学に入学している。60年代の終わりと言えばそれは政治の季節であり、作品であの時代の学生運動について特に運動の欺瞞について否定的に語ることはあるものの、社会に「異議申し立て」を行ってきた世代でありその一人だ。宮崎は1941年生まれと村上よりも8年早く生まれており、あの時代には学生ではなく東映動画の会社員であったが、東映動画労働組合の書記長を務めるなど、こちらも会社や社会やそのシステムに対して「異議申し立て」を行ってきたと言えるだろう。
つまり、彼らは社会に「異議申し立て」を行い、ある種の挫折を経験した後に、この現実の世界で各々のやり方で多くの成功を掴んだのだ。これは何も二人だけの特別な話ではない。この世代の多くが社会に「異議申し立て」を行った末に、うまく行かず挫折を経験するも、日本の経済成長に合わせ豊かに生きていくことができたのだ。だから、この現実が理想から大きく離れているとしても現実に戻れ。この現実もそこまで悪くないと経験的に言っているのだ。
しかし、今の若者が社会に不満を持ち「異議申し立て」を行い、独自のやり方で生きて行った末に、果たして豊かな暮らしを手に入れることができるのだろうか。もちろん、どんな時代であろうとそれができる人はいるだろう。ただ現実は彼らの時代のそれとはもはや大きく違ったハードモードだ。少なくとも経済成長に合わせて自然と収入が増え、一戸建ての庭付きの家をローンで買って夫婦と子供二人と愛犬と暮らすというような、彼らの時代に誰もが出来た暮らしは理念を妥協し社会への迎合がないと(場合によっては社会へ迎合したとしても)難しい時代になってしまっているのだ。
「街」を組み込んだ最初の長編である『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の最後で<僕>は「街」から脱出する方法を見つけながらも土壇場でその世界にとどまることを選ぶ。そして、こちら側の<私>は死を受け入れる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1985年に書かれた作品であるが、その結末の方が「外側」を求める今の気分に合っているのではないだろうか。
そしてもっと言えば、あちら側やこちら側のような二項対立に持ち込むのではなく、リアリズムの呪縛を超えて、あちら側やこちら側の垣根を壊すべきではないか。それがこれまでに村上や宮崎が行い文学の、映画の世界を前に推し進めて来たことであり、読む/見る我々の現実をも変えて来た、フィクションのファンタジーの力ではないだろうか。
category:COLUMN
tags:Thinking Framework
2023/11/07
8. 取り戻すべきは過去か未来か Text : Naohiro Nishikawa Photo : Daiki Miyama 2010年代初頭に生まれた音楽のジャンルにVaporwaveがある。Vaporwaveはインターネットのコミュニティーから生まれたジャンルであり、Vapor(霧や蒸気の意)という名の示す通り、実体のない作られたジャンルだ。2000年後半に盛り上がりを見せたChillwaveの音楽ブログ主導という非権威主義を更に推し進め、コミュニティー主導、匿名性そしてインターネット特有のミーム感あるいは悪ふざけから作られたものだ。 Vaporwaveの特徴はDTM黎明期のMIDI音源をそのまま使ったようなチープな打ち込みによるエレベーターミュージックやシティーポップを当時流行していたポストインターネット的な意匠とバッドテイストによりパッケージングしたものと言えるだろう。このジャンルを代表する作品であるMacintosh Plusの『Floral Shoppe(フローラルの専門店)』のジャケットやコンピュータ翻訳調とも言える壊れた日本語を見ればこのジャンルの感覚や美学が伝わるはずだ。 そういった表面的な特徴以外に、Vaporwaveにおいて特筆すべきことは、すべてが過去と結びついていることだろう。それは先代のChillwaveからの流用であるダウンテンポと哀愁漂うシンセサウンド由来のところもあるが、彼らが使う意匠やモチーフは、16bitゲーム風のスプライト、3DCG黎明期のレイトレーシングやローポリゴンで描かれた静物。郊外型のショッピングモールやヤシの木への情景など過去を連想させるものばかりだ。 そのVaporwaveを代表するアーティストの一人がESPRIT 空想ことGeorge Clantonだ。ESPRIT 空想はその漢字を取り入れた名義からも明らかなように、2014年のアルバム『Virtua.zip』のジャケットは『バーチャファイター2』の今の目で見ればポリゴンも解像度も足りないアキラが使われるなど、Vaporwaveの様式を用いている。 しかし、その4年後の2018年に本名George Clanton名義でリリースした『Slide』では旧来のVaporwave的様式は影を潜めることになる。ジャケットに写る本人のブリーチされたジーンズとロンT、ハイテクスニーカーの組み合わせは90年代初頭のダンスカルチャーやその後のレイブカルチャーを思わせるものであるし、鳴っている音はロックとダンスが融合したセカンド・サマー・オブ・ラブなマンチェスターや、それを通過した91、2年頃のシューゲイズとダンスを混ぜたギターバンドと同じ音だ。タイトルからも分かるように当然後期のFlipper’s Guitarからの影響もあるだろう。 このアルバムもVaporwaveだと捉えるのであれば、Vaporwaveは何にでもなれる自由なジャンルだと言うことができるだろう。唯一、Vaporwaveというジャンルを規定するものがあるとすれば、それは過去の何らかの様式を取り入れているということだけだ。*1 Vaporwaveの例を持ち出すでもなく、音楽は過去の様式を引用し発展してきた。それは常に新しいムードを取り入れてきたK-POPでも例外ではない。 K-POPにおいてもっとも過去に接近しているアーティストと言えば、2022年7月に『Attention』でデビューした5人組のガールズグループNewJeansだろう。NewJeansが所属するADORの代表であり実質的なプロデューサーであるミン・ヒジンは、グループの名前を老若男女みんなに愛されてきた「ジーンズ」のように日常に密接し、時代のNew Gene (新たな遺伝子)になる覚悟が込められていると説明している。そして現在において、彼女たちの世代の日常に密接したファッショントレンドと言えばY2Kだ。 デビュー曲の『Attention』のMVで5人は、ジャージ、ジーンズ、サッカーシャツ、モトクロスジャージ、ワークブーツにストライプのニーソックスと様々なルックを矢継ぎ早に見せているが、それらはどれもY2K的なスタイルと言えるだろう。またこのビデオで特徴的なのは、寝起きの髪に止められたヘアピンや有線のポータブルヘッドホンなどの小物が、Y2Kを通り越し90年代や80年代をも思わせるところだ。 つまり彼女達において、Y2Kのカルチャーは2000年代という特定の時代のファッショントレンドを指すというよりもレトロでかわいいもの一般という感じなのだろう。日常でレトロでかわいいものという価値基準は日本のアイドルカルチャーから見るとごくありきたりなもののようにも見えるが、近年のK-POPのガールズグループのコンセプトとしては異質なものだ。 2020年11月に『Black Mamba』でデビューしたaespaは「自分のもう一人の自我であるアバターに出会い、新しい世界を経験する」というコンセプトのもと、メンバー4人の各々に対応するアバターがバーチャルなメンバーとして存在し、合計8名のメンバーが現実世界と仮想世界の両方で活動するとしている。 NewJeansよりも4ヶ月ほど早く2022年3月に『Tippy Toes』でデビューしたXGはXtraordinary Girls (extraordinary 並外れた、規格外の意)から来ており、常識にとらわれない規格外なスタイルの音楽やパフォーマンスを通じて、世界中のさまざまな境遇の人たちをエンパワーしていくとしている。 このようにaespaもXGにも日常やレトロというキーワードはなく、ロゴもAcid metalやAcid graphicsと言われるサイバーで未来志向なもので、よりパキった*2 表現を行っている。これは彼女達がデビュー時にベンチマークとしたのが、世界的な成功を収めたBLACKPINKだったからだろう。BLACKPINKは、最も綺麗で女性的な色とされてきたピンク(PINK)と、それを否定する意味で黒(BLACK)を前に付けて、「美しいもの(現存する女性らしさ)が全てではない」ことを主張するとのことだが、その黒の部分のコンセプトを更に推し進めたのが、aespaのメタバースであり、XGの規格外のギャルであったのだろう。 しかし、それらのコンセプトもNewJeansの成功によって若干の軌道修正が行われているように見える。これまでのパキったEDMを軸に強めのビートやトラップ、トランス感あるシンセサウンドが売りだったaespaは、23年のサマーソングとしてリリースした『Better Things』では夏休みを感じるトロピカルでリラックスした楽曲でカムバックしてきた。MVもこれまでになくリラックスした雰囲気で、メンバーが過ごす部屋には時代遅れとも言える大型のステレオやカセットテープ、ポラロイドなどのレトロなものが配置されている。CGの熱帯魚に連れられて日常からあちら側の世界に行くという描写がなんとかaespaのメタバースのコンセプトを保っているところだが、それを除くと暖色にカラーコレクションされたビデオの質感も含めて実にNewJeans的世界観と言えるだろう。 aespa – Better Things もう一方のXGがリリースしたサマーソングである『NEW DANCE』も、これまでのK-POP的EDMや『MASCARA』で聴かせたSophieを思わせるハイパーポップとも言える楽曲から方向を変えて、ギターのリフが入ったR&Bハウスとでも言えるような楽曲に仕上がっている。MVもこれまでの戦隊モノやディストピア感さえ漂うパキった表現は後退し、スタイリングはNewJeansの『Super Shy』のMVでも使われているY2Kを取り入れた人気ブランド『Mowalola』であるし、後半で唐突に登場しズームインされるモニターは、VHSビデオを一体化させたブラウン管のテレビデオというレトロ具合だ。一番最後でそのレトロな世界から元のXG的空間に戻るのは夏休みに時空を超えて2000年代初頭に遊びに行っていたということなのだろうか。 XG – NEW DANCE K-POPは商業音楽であり、外貨を稼ぐためにUSを始め様々な国のマーケットを狙ったという出自からしても、売れたものが正義というカルチャーである。よって、NewJeansのK-POPのEDMを基調としラップや高音パートが入るお約束を捨てて、インディーR&Bとでも言える楽曲と日常でレトロでかわいい意匠での成功は、K-POP業界に新たな潮流を産んだと言えるし、他のガールズグループの新しいベンチマークになるのも理解できる。 しかし、過去だけを見ていて良いのだろうか。確かにY2KやレトロなものはNewJeansを消費する若い世代にとっては目新しいものと写るかもしれない。それでも、それはやはり過去のものだ。2020年代としての新しい何かを産まなくてもよいのだろうかと思う。 前述したようにVaporwaveは過去の何らかの様式を取り入れているジャンルだ。しかし、そこで使われている意匠やモチーフをよく見てみると、実は未来を志向していることに気づく。16bitゲーム風のスプライトや3DCG黎明期のレイトレーシング、ローポリゴンは今の目で見れば時代遅れのものであるが、その当時としては最新のものであり、より良いものを求めた中での進化の通過点だ。George Clantonが『Slide』で参照した80年代の終わりから91年頃のロックとダンスの融合や続くシューゲイザーのダンス化もそうだ。当時は1年ごとに、ともすれば数ヶ月ごとに新しい音が鳴らされ、多くのバンドがそれに追従し、また新しい音を発明する未来があった時代なのだ。 つまり、Vaporwaveは新しいものが登場しない、すなわち未来がない2010年代の状況を未来のあった過去に求めた、失われた未来を過去に希求したジャンルと言えるのではないだろうか。未来がない現在ではなく、未来があった過去を現在に立ち上げて未来を幻視したのだ。 夏の終わりとは言えまだ猛暑が続く9月の終わりにリリースされたXGの1stミニアルバム『NEW DNA』のコンセプトは「常識にも枠にも囚われることのない『新たな種族』であるという表明を果敢に作品に込めた」とのことである。『新たな種族』というのは、全員日本人であり韓国のスター育成システムというフレームワークを使ったK-POPともJ-POPとも厳密には言えないXGの立場をフィクショナルに表したものだろう。その『NEW DNA』というコンセプトの通り、一曲目は『HESONOO』(へその緒)という攻め具合であるし、二曲目も『X-GENE』と未知な遺伝子を表したトランスヒューマン的なものと言えるだろう。 『NEW DNA』のリリースと同時に公開された『PUPPET SHOW』のMVは、『NEW DANCE』の日常のそれとは違い、白に包まれた未知の種族の住む惑星に神として降臨し祝祭を受けるような、外側を目指したものだ。イーロン・マスクのスペースXの火星移住計画や長期主義者の宇宙主義、地球とは大きく環境が違うところでも宇宙服のようなものを着ることなく活動できているところを見るとトランスヒューマニズムにも通じるものがある。これが未来として正しい方向かどうかは分からない。分からないが、分からないからこそ、それは一つの予測不可能な未来を示すものだと言えるのではないだろうか。 XG – PUPPET SHOW *1 George Clantonの最新作『Ooh Rap I Ya』のレビューとして吸い雲は「特定の時代の美学を取り出すアプローチ」と称している。これは本稿で取り上げた『Slide』についても言えることだと思う。https://turntokyo.com/reviews/ooh-rap-i-ya-george-clanton/ *2 パキるとは一般に市販薬をオーバードーズ(OD)し意識を変容した状態を指すが、ここではそこから転じて尖ったあるいは覚醒している状態を指す動詞として用いている。
2023/09/01
6. 常識の外側へ Text : Naohiro Nishikawa Photo : Daiki Miyama 音楽のカルチャーはドラッグと分かちがたく結びついてきた。古くは1950年代のバッブとその後のハードバッブのジャズプレーヤーのヘロイン。60年代のヒッピームーブメントでの大麻やLSD。ギャングスタのクラック。セカンドサマーオブラブのエクスタシーつまりMDMAと、時代やシーンによって使われるものは違うが、ドラッグは音楽とそのカルチャーに分かちがたく結びつき、シーンを形成してきた。 現在の日本で、音楽とドラッグの関係をもっとも色濃く反映させたアーティストとして真っ先に思いつくのは、舐達麻をおいて他にいないだろう。麻を舐める達人というその名前の通り、大麻は彼らの存在において中心的なものとなっている。 それは、もちろんリリックにおていも顕著だ。「何処にも行かず此処でマリファナを嗜んだ/誰が居ても構わず/煙を吐いた」(GOOD DAY)、「毎日毎日スモークするマリファナ/俺が育ててる/俺と仲間達で育ててる」(BUDS MONTAGE)というように、彼らの世界において大麻は日常的にそこにあり、自分達で育て毎日使うものなのだ。 また、彼らの大麻に対する考え方は、典型的な大麻解禁論者とは一線を画す。多くの大麻解禁論者は、大麻は健康に対する害が少なく、依存性が低く安全だと説明し、大麻を禁止することに合理的な理由はないと主張する。しかし、舐達麻は違う。「依存性あり、だから何」(BLUE IN BEATS)である。依存性があろうが、安全性が低かろうが、法律で禁止されていようが、そんなことは彼らが大麻を吸う上では何ら関係ない。それが舐達麻を舐達麻とたらしめるアウトローの生き方なのだ。 大麻の栽培と所持は日本では犯罪とは言え、誰かに直接迷惑をかけるような種類のものではないとも言えるだろう。一方で、舐達麻は過去に金庫破りを行い警察に追われ、車で逃走時にコンクリートに激突しメンバーの104を亡くすという痛ましい事件を起こしている。この事件をリリックにしたのが『FLOATIN’』だ。 尾崎豊が『15の夜』で唄った「盗んだバイクで走り出す」というフレーズは、学校や家庭に縛られて自由にならないと感じる若者が、その自由に憧れや共感を示すものだが、現代の若者は「盗んだバイク」という時点で拒否反応を示し共感ができないという話がある。この話がどれくらい本当で普遍性のあるものかは定かではないが、法を破ることや、他人に迷惑をかけることを極端に嫌う今の日本社会に、なぜ舐達麻のアウトローは受け入れられたのか。YouTubeの『BUDS MONTAGE』が4600万回再生*1されているのみならず、なぜ地上波のテレビ番組*2 にも出演することができたのだろうか。 それはポピュラー音楽研究者の大和田俊之が言う*3ように彼らの持つ<詩情>、つまりポエジーの力に他ならないのではないか。社会と反社会という二項対立において、近年、強く嫌忌される反社会的な行動であっても、その<詩情>によって、幅広いリスナーからの支持を集めることができることを示したのだ。つまり、舐達麻は自身のアウトローとして生きる哀愁とビート、リリックが一体となった<詩情>の力によって、この二項対立を脱構築し、常識の外側に行くことができたのだ。なにも法を破ることやアウトローであることが常識の外側ではない。法を破ってもアウトローであっても世間に受け入れられたことが常識の外側なのだ。 ALLDAY / 舐達麻(prod by GREEN ASSASSIN DOLLAR)。2023年7月時点での最新曲。BUDS MONTAGE以来2年ぶりのGREEN ASSASSIN DOLLARのビート。7/11のMI_Dのトークによると曲は常に作っており、10曲程度が同時進行中とのこと 舐達麻のそれとはまた違った方法で、常識の外側を目指すアーティストがいる。それが食品まつり a.k.a Foodmanだ。食品まつりは、あらゆる音楽が出尽くしたと言われ、過去のスタイルからの引用と組み合わせのセンスでなんとか新しいものを生み出そうとしているこの時代において、未知の音楽、ビートを探し続けているアーティストの一人だ。 食品まつりは誰の真似でもないユニークな音楽を制作するために、自身が起こすエラーを活用すると話す。「すごいエラーが起きやすい人間。エラーが音楽的にいい方面に転ぶときがあって、そのエラーを別の視点の自分で編集する」*4と語っている。つまり自身のこれまでの蓄積や常識からは出てこない音を機材の操作ミス等によって偶発的に発生するエラーに求め、そのエラーを自身の音楽的な感性で編集するということだろう。 しかし、いくらエラーを起こしやすい人間と言ってもユニークなエラーというものがいつも起こるものだろうか。また、音楽的には外れ値であるエラーを自身の価値観のままで音楽的に良いと受け入れられるものだろうか。もし意図的ではなくエラーを多発させ、それを受け入れる自身の価値基準を変える方法があるとすれば、例えばそれはドラッグを使うことだろう。ドラッグでの酩酊により機材の操作ミスを起こしエラーを発生させ、意識を変革させ音の感じ方を変え価値基準を変えるのだ。そして食品まつりにおいてのドラッグとは、2016年にそのヤバさに気づいたというサウナだ。 食品まつりはTimeoutのインタビュー*5 で初めて正しい入り方でサウナを体験したときのことを、これは現代のサイケデリックカルチャーだと発言している。また、イギリスのメディアFACT magazineの人気企画『Against The Clock』*6には横浜のサウナから出演しており、「サウナで頭の中を真っ白にしてそこからトラックメイクをするといい曲ができる。いつもそんな感じでやっている。」との発言もあれば、LAの<Sun Ark Records>から2018年にリリースされた『Aru Otoko No Densetsu』ではそのものずばりの『Sauna』という曲や、ニューヨークの〈Palto Flats〉より2018年にリリースされた『Moriyama』には『Mizuburo』という曲もある。 こうした発言や曲名からも分かるように、食品まつりは自身の音楽と現代のサイケデリックカルチャーだと言うサウナを完全に結びつけている。そして、そのサイケデリック体験を引き起こすべくドラッグとなるものは、舐達麻や多くの先人達が使った法で禁じられたものではなく、むしろ健康的なイメージさえあるサウナだ。つまり、彼は音楽とドラッグというカルチャーを継承しながらも、ドラッグを使用することの社会/反社会という二項対立をサウナという反社会ではない手段によって軽やかに脱構築しているのだ。 サウナ以外にも食品まつりが関心を寄せるものは、最新アルバムである『Yasuragi Land』のリードトラックでもある『Michi No Eki』(道の駅)や、『Minsyuku』(民宿)、最近本人がSNSでも盛んに言及している『Aji Fly』(アジフライ)と、サウナと同じように日本の地方都市にも見られる土着的でクールと呼ぶには程遠いものばかりだ。 それでは、食品まつりがドラッグであるサウナを用い、道の駅や民宿、アジフライという非都会的であり、非システム的かつ非資本主義的なものを持ち出し、目指ものとはなにか。それはやはり現在の我々に不可避なシステムとして存在する資本主義の外側ではないかと思う。 それは『Yasuragi Land』がKode9主催の<Hyperdub>からリリースされたことからも見てとれる。Kode9ことスティーブ・グッドマンはウォーリック大学で哲学を専攻しており、「加速主義」の提唱者として知られるニック・ランドに師事し、ランドと彼の学生の哲学の実践の場であったサイバーネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit: CCRU)*7にも参加していた。最終的に同大学で哲学の博士号を取得しているKode9は、食品まつりの音楽のユニークさのみならず、システムの外側を目指すその態度をも感じとっているのではないだろうか。 いずれにせよ、食品まつりは既存のシステムに対して反システムとして二項対立に持ち込むのではなく、誰もが見逃していたあるいは見捨てていた土着的でかつ非システム的なものを持ち出し、軽やかにシステム/反システムを脱構築することで、この世界のシステムである資本主義の外側、常識の外側を目指しているのだ。それは資本主義のプロセスを加速することによって資本主義を破壊しようという試みよりも、より実践的な外側を目指す試みではないだろうか。 Foodman, Michi No Eki feat. Taigen Kawabe。1:40では「あ、間違えた」と作為的に起こしたと思われるエラーを取り込んでいる。 *1 2023年7月時点 https://www.youtube.com/watch?v=zaBp1Jh3Bkc *2 2023年7月11日の深夜にフジテレビで放送された M_IND https://www.fujitv.co.jp/m_ind/ *3 日本語ラップの現在(3)大和田俊之 舐達麻
2019/04/11
1. 2018年代 by Daiki Miyama 現代史は10年を単位としたディケイド、つまり年代で区切られ語られることがある。特に音楽やファッションなどのカルチャーはその様式の記号として年代が使われる。このスネアのリバーブは80年代っぽいとか、このスニーカーのハイテク感は90年代っぽいといった具合に。 しかし変化の進みが早く多様な音楽やファッションの様式を10年という単位で区切るのは無理があるように思う。音楽で90年代と言って思い浮かべるのはグランジだろうか、アシッドジャズだろうか、それともドラムンベースだろうか。ファッションにおいてもそうだ。90年代に今につながるハイテクスニーカーの多くが発明されブームになったのは確かだ。ただ 90年代の足元がすべてハイテクスニーカーだったかというと、当然そんなことはなく、ドクターマーチンなどの定番はもちろん、レッドウイングのエンジニアブーツや UGGのムートンブーツなどもブームになりよく履かれていたように思う。 それでも、10年という区切りが有効な分野もある。そのひとつが進みの遅い音楽メディアの物理フォーマットだ。リスナーが音楽を安心して購買し収集できるようにするためには、音楽メディアの物理フォーマットはファッションのトレンドのようにシーズン毎に変わるわけにはいかない。 レコードブームと言われて久しい昨今だが、アメリカに端を発するレコードブームはがいつから起こったかを考えるとそれは 2008年頃であったように思う。アメリカのレコード会社の業界団体であるアメリカレコード協会(RIAA)のデータによると CDの登場により落ち続けたレコードの売上が初めてプラスに転じるのは 2008年からだ。 USでのレコードの売上枚数。濃い青はアルバムとEP、薄い青はシングル盤を示している。これを見ると90年代のレコードはシングルで成り立っていたことがわかる。参照元:https://www.riaa.com/u-s-sales-database/ その 2008年に何が起こったかを振り返ると Captured Tracks、Mexican Summer、Acéphale、Big Love, The Trilogy Tapesや PANなど今に繋がるインディーシーンを作り上げたインディーレーベルがこぞって設立されたのが、この年だということに気づく。その前後も含めると Italians Do It Better、Secred Bones、DAIS、Burgerなどが2007年で一年早く、Posh IsolationやR.I.P Societyが2009年となる。これらのインディーレーベルの主要なメディアがレコードであることを考えると、2008年から続くレコードブームは彼ら新興のインディーレーベルが主導したブームであると言えるのではないだろうか。 また、スマートフォンや音楽関連のサービスを眺めてみると、世界で最初のスマートフォンであるiPhoneが登場したのが 2007年で、日本ではじめて発売されたiPhone 3Gが2008年。対抗する Androidも2008年に登場している。インディーレーベル御用達の Soundcloudと Bandcampができたのは共に 2007年なので、2008年は今に続く環境が一通り揃った年だったとも言える。 本連載『Thinking Framework – 考える枠組み』では、今に続くレコードブーム/インディーシーンの起源である 2008年をひとつの時代の始まりと捉え2008年代と呼ぶことにする。そうすると 2018年は必然的に 2018年代という新しいディケイドの最初の一年ということになり、今年 2019年はそのディケイドの二年目ということになる。 これは自分だけではなく、多くの人に共感してもらえる感覚ではないかと思うのだけどここ1、2年で何かが大きく変わるんじゃないかというゲームチェンジの予兆みたいなものがある。『10年後から振り返ればここが節目だった』本連載では、そういった視点で現在を捉え、ひとつの目として感じたことを伝えていければと思う。今の時点で振り返れば2008年がいろいろな始まりであったように、2018年は今後の 10年の方向性を決定付ける新しいディケイドの始まりとして後年に記憶される年となるような何かを。 Text by Naohiro Nishikawa
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