Thinking Framework – 考える枠組み vol.2

2. すべてのことはメッセージか

 

by Daiki Miyama

 

アメリカは私は何者であるというアイデンティティの国であり、私の主張はこうだというメッセージの国でもある。ドナルド・トランプの「Make America Great Again」という選挙のスローガン、Nikeの「Just Do It」や Appleの 「Think Different」のキャッチコピーは当然として、音楽界隈でもこうした メッセージが溢れている。

 

古くはウッディ・ガスリーのギターに書かれた「This Machine Kills Fascists」。なぜかノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの『Subterranean Homesick Blues』のミュージックビデオに見るメッセージボード(これはピチカート・ファイブのそのものずばり『メッセージソング』のミュージックビデオでも少しだけ引用されている)。最近 Vetementsがコピーして話題になったカート・コバーンのTシャツ「Corporate Magazine Still Suck」もそうだ。

 

 

「目にうつるすべてのことはメッセージ」と歌ったのは荒井由実で、この歌は小さい頃は感受性が高くすべてのものからメッセージを受けとることができたという受けて側の話だが、子供でなくても感受性がそれほどでなくても、すべてのものがメッセージを発している。それがアメリカという国だ。

 

アメリカがシンプルな言葉を使った直接的なメッセージで溢れているのであれば当然それを逆手にとった表現もある。60年代から活躍するアーティストであ るエド・ルシェはシンプルな言葉をキャンバスに描いているが明確なメッセージを意図的に排除した作品を制作してきた。「Japan Is America」のような戦後の日本を批評的に表したような鋭い作品もあるが、多くの作品は抽象的で多 義的であり言葉の意味性を曖昧にしている。

 

アンディー・ウォーホルの『129 Die in Jet!』は129人が飛行機で死んだと衝撃的な文字が飛び込むが、これは1962年に実際に起きた飛行機事故を報じた New York Mirrorの紙面をそのまま模写したものだ。シンプルで強い言葉が並びなんらかのメッセージを示したサインボードのようにも映るが、そこにある のはメッセージではなく揺るぎない事実だ。

 

左からEd Ruscha、Andy Warhol、Barbara Kruger

 

言葉を使ったアーティストと言えば、バーバラ・クルーガーにも言及すべきだろ う。彼女の代表作であるデカルトの「I think, therefore I am(我思う、ゆえに我あり)」をもじった『I shop therefore I am』は消費主義を批判したメッセージ性の強い作品だ。しかしその赤のボックスに白のFuturaフォントを Supremeがロゴとしてコピーし、(もう誰も覚えていないと思うが佐藤可士和も スマップのキャンペーンでコピーしていた)商品として消費されることで、本 来の消費主義批判が消費主義賛歌のスローガンのようにも見える面白さがある。 私は買い物する、ゆえに私である。高額なブランド品を買う動機付けのマントラとして、メッセージは逆転する。

 

これら先人が行ってきた言葉とメッセージの関係の解体をさらに推し進めるの が、現行のアーティストであるLAのカリ・ソーンヒル・デウィットだ。彼の代表作である事件現場や動物、薬や札束などの強い写真の上と下に写真との関連 が不明確な一見ランダムとさえ思える強い言葉を配置したサインボードは、見る者の社会性や政治的な志向、過去の経験などを通じて様々な事象を思い起こさせる。そして、その強い写真と強い言葉の関連の不明確さに、本来そこにあ るはずのメッセージの不在に見る者は戸惑い揺さぶられる。

 

Cali Thornhill DeWitt

 

OFF-WHITEのヴァージル・アブローは、このメッセージなき言葉をファッションに持ち込む。Nikeの Air Forceや Air Maxという誰もが知っているアイコニックなスニーカーにダブルコーテーションで囲った”AIR”と書く意味の無さ。彼はカニエ・ウエストのアートディレクターとしてカニエのマーチャンダイズに 前出のカリを起用していることからも分かるように、メッセージとその意味性 については当然、意識的なのだろう。しかし、このHelveticaのボールドで綴られた大文字の世界が商品として乱用され THE CONVENIとタイプされると、メッセージの不在は商品のロゴとして隙間を埋めるだけの文字に変わる。もともと売りたい以外のメッセージの無いところにメッセージが無い言葉を置いても何も生まれないのだ。

 

本来メッセージがあるべきところにメッセージが無いという面白さを音楽に持 ち込む最新型がスウェーデンのViagra Boysだ。彼らのようにポストパンクや グランジといった音のバンドは、その多くが愛や生や死のようなシリアスなテーマを歌ってきた。あるいは歌っていると思わせてきた。そういった前提において Viagra Boysの『Sports』は Nirvanaの『Smells Like Teen Spirit』 のリフに乗せて、ベースボール、バスケットボールとスポーツの名前を山手線 ゲームのように列挙する。続くサビではただスポーツと連呼するだけだ。それはヴァージル・アブローが”SPORTS”と大文字でダブルコーテーションで囲いタイプするかのようにまるで意味を持たない。

 

 

しかし、本当に意味が無いのかというとそうでもなく色々な解釈が可能なようにも思える。例えば野球、バスケットボールとアメリカ産のスポーツから始まることには、商業化したアメリカ型のスポーツへの批評性を読み取ることができる。テニスコートを MVに使ったことは、元ネタのNirvanaのMVのバスケットボールコートのパロディーでもあると思うが、今や高所得者のスポーツである テニスや唐突に挿入されるWeiner dogs(ダックスフンド)にはイギリスへの、 バーベキューにはアメリカへの批判を感じる。これはロックの大国であるイギリスとアメリカに対するロック辺境の地スウェーデンからの一撃という受け取 り方も当然できるだろう。

 

また、歌詞を注意深く読んでみるとスポーツ名の列挙だけではなく、「裸の女の子たちと/裸の男たちが/ダンスして/ビーチに倒れこむ」というような映像的な表現もあれば「大麻を吸って/朝、ハイになり/インターネットで物を買う」という自身の行いを憂いたような私小説的な表現も見受けられる。スポーツの種目やスポーツの連呼と、その間に挟まれたこれらの写実的な表現との関連は不明確であり、本来そこにあるはずのメッセージもない。このスポーツの種目とスポーツの連呼を強い言葉、写実的な表現を強い写真とみなすと、この曲はカリのサインボードと同じ構造だということに気づく。そしてカリのサインボードと同じように、聞く者は様々な事象を思い起こされるのと同時にメッ セージの不在に戸惑い揺さぶられるのだ。

 

Text by Naohiro Nishikawa

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