読書実録 #5

不定期にお届けするKentaro Mori(世界的なバンド)のコラム。

 

 

■8/20

 

Ulises Contiのツアーがあるそう。行きたい。

カロリン・エムケ『憎しみに抗って』(みすず書房)を読む。

読みながら、苦しんだ。

なぜ憎しみはなくならないのか、憎しみにどう抗えばよいのか・・・

 

憎しみは突如沸き起こるものではなく、徐々に育まれていくものなのだ。憎しみを、たまたま生まれた個人的な感情だと考えてしまえば、望むと望まざるとにかかわらず、憎しみがさらに育まれ続ける環境に手を貸すことになる。

 

傍観者もまたヘイトに加担しているという自覚を持て、と突き付けられた。

 

自分が「標準」に当てはまる者は、「標準」などないという誤った思い込みを抱きがちだ。[・・・]また、標準に当てはまる者は、そうでない者を自分たちがどんなふうに排斥し、貶めているかに気づかないことが多い。標準に当てはまる者は、その標準の影響力に気づかない。

 

「私たちは差別「される」側にいるという事実を、(メディアも含めて)日本人の多くが自覚しているようには見えない」という訳者の指摘も突き刺さった。ちょっとしたことで、簡単にひっくり返るような、そんなものだ。

じゃあ、実際どうすりゃいいのよ、ということだが、、、

 

想像の余地を再び取り戻すこともまた、憎しみに対する市民の抵抗のひとつだ。[・・・]ルサンチマンと蔑視に対抗する戦術のひとつは、幸せの物語である。人を排斥し、人の権利を奪うさまざまな組織や権力構造を前にして、憎しみや蔑視に抗うためには、人が幸せをつかむさまざまな可能性、真に自由な人生を送るさまざまな可能性を取り戻すことが重要なのだ。

 

ぼくたちは、幸せにならなくてはいけない。

 

 

 

■8/21

 

 

Ryo Murakamiの新作『Sea』。ピアノの音も聞こえる。新境地か、楽しみ。黒い海。

 

『長田弘全詩集』(みすず書房)をついに読み始める。

まずは1965年の第一詩集「われら新鮮な旅人」から。晩年の作品しか読んでこなかったので、一読その重々しさに驚く。

 

ぼくたちにとって 絶望とは

あるなにかを失うことではなかった、むしろ

失うべきものを失わなかった肥大のことだ。

おびただしい椅子と白壁とにかこまれて

撓(たわ)みながら 鏡は過ぎゆく歴史の記憶をすべる。

多くのものが過ぎていった雨季の階段のうえで

ぼくたちは時代の咽喉を、

そこでただひとりの死者の声をみつける。

名のない魚だって 死んだら

ぼくたちの意識のなかを泳ぐだろう。

鳥だって死んだら意味を飛ぶのだ。

そのように 死者だって回復するのだ。

誤謬のなかの死はいまこそぼくたちの詩をためす。

それというのもいつだって、詩は、どのように過激な行為や言葉よりも過激だからだ。

ぼくたちの内なるやさしさ、

そのものにならねばならないからだ。

(「無言歌」)

 

「深呼吸」まではまだ遠い。

 

 

 

■8/22

 

 

Extrudersの岡田センセイの新バンド。

 

 

半分くらい読んでほったらかしていた『フラナリー・オコナー全短篇 上』(ちくま文庫)を再開。

そういえば、こないだ観た『スリー・ビルボード』の登場人物もフラナリー・オコナーを読んでいた。

 

 

でもやっぱりこの、暴力・ブラックジョーク・神、というモチーフ、淡々とした空気を読むとミヒャエル・ハネケを感じる。『ファニーゲーム』とか。

 

森からするどい悲鳴があがり、続いて拳銃の音がした。「どうだね、奥さん。こってり罰をくらうやつもいれば、まったく罰なしのやつもいるなんておかしいと思わないかね?」

 

短編一作にものすごいエネルギーが詰まっているので、ひとつ読むだけでものすごく消耗する。けど、なぜか読んでしまう。

 

 

 

■8/23

 

https://jp.residentadvisor.net/features/3322

 

↓これは聴いたことがなかった。ありがとう無印。

 

 

「アンビエントとは、自身の奥底にある内面を拡大し、深く入り込んでいく音楽形態だ。アンビエントミュージックを作っていて、これは外部の環境ではなく、むしろ内面の環境だと実感するに至った」

 

ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(C.I.P BOOKS)、『正・続 和合亮一詩集』(現代詩文庫)を買う。

 

古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫)を読む。

何度も挫折している。が、今ならイケる気がする。

 

いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。[・・・]どれも握り拳をふたつ合わせたぐらいの小さな丸い岩が、数えてみると全部で八つ、投げやりに積み重ねられて、いまにも傾いて倒れそうに立っている。その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺め耽っていた。ところが眺めているうちに、その岩の塔が偶然な釣合いによってではなくて、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうとする力によって、内側から支えられているように見えてきた。ひとつひとつの岩が段々になまなましい姿になり出した。それにつれて、それを見つめる彼女自身の軀のありかが、岩の塔をかなめにして末広がりになってしまい、末のほうからたえず河原の流れの中へ失われていく。心細くて、杳子は自分の軀をきつく抱えこんだ。軀の感じはまだ残っていた。遠い遠い感じで、丘の上から自分の家を見おろしているみたいだった。

 

どうみても「病気」の杳子だが、最後に杳子と男はどうなるのか明示されることはない。

病気を治す/治ることが良いことだとは必ずしも言えないのだ。

 

何でもない動作にいちいち妙な感じがつきまとうのはかなわない。たとえば手を耳のうしろにやって髪をあぜつけていると、どこかで小肥りの女の人が誰かと噂話をしながら知らず知らず片手を項にまわして痒いところを掻いている、そんな姿を自分の手の動きに感じる。御飯を盛った茶碗を手にすると、箸をもったほうの手が御飯粒みたいな白さとふくらみを帯びてきて、なんだかしきりに羞かしがっているようで、そのくせとても厚かましい感じで、ひとりでにそそくさと動き出す。[・・・]といっても、軀が他人のものになってしまうみたいじゃなくて、どれも自分のもの、どれも自分のものという実感はなまなましいのに、なにか自分の力には余る重みのような気がして、困ってしまう……

 

 

■8/24

 

 

引き続き「妻隠」。

 

ときには彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした。すると彼はもうどこかにいるという確な感じの支えをはずされて、途方もないひろがりの中に軀ごと放り出され、自分のコメカミの動悸を、ただひとつの頼りとして、心細い気持で聞いていた。動悸の音を細々と響かせて空間はどこまでもひろがってゆき、四方に恐しい深みをはらんだ。しかもその空間のどの部分も、それ自身は空虚でありながら、ちょうど大きな岩の中に封じこめられた紋様のように、永遠で、そのくせどことなく淫靡な相貌を帯びている。

 

「杳子」に比べると、半分くらいの枚数で、重々しさもないが、どことなく響きあっている。

 

「一人一人の違いなんて、どうでもいいんだろうね」

[・・・]

「じっさい、われわれはいろんな人間を内側に抱えこんでるようだからな。」

 

 

■8/25

 

これがめちゃ面白かった。

 

柴崎:建築もそうですが、私が映画はいいなと思うのは、手前と奥がある。それが本当にとってもうらやましいです。手前にいる人と奥にいる人が関係ないことをしているという状況が、実際の空間でも、とても好きなんです。だからそれを小説でやりたいのだけど、小説でそれを書くのはものすごく難しい。小説では二つのことを完全に並行して書くことはできないし、2行を同時に読んでくださいというわけにもいかない。要するに文章は1列しかないから、どうしても順番ができてしまうんですよね。だからそれに近いことをどうやったら実現できるか考えています。

 

 

ここんとこヘヴィーな本ばかり読んでいて、気分が鬱々としているので、なんか軽いのは無いかと思って、庄野潤三『絵合せ』(講談社文芸文庫)を読む。

庄野潤三ははじめて読む。

確か村上春樹の『若い読者のための短編小説案内』で庄野潤三も紹介されていたはずだが、その時はまったく興味をもてなかった。

が、さらっと読み始めてびっくり。

 

机の前に和子と細君がいて、嬉しそうな顔をしている。隣りにいた小学六年生の良二も来て、部屋はいっぱいになった。

「この枝の中に」

と、整理箪笥の上の一輪挿しにいけてある、蔓草のような花をさして、和子がいった。

「尺取虫がいる。どこにいるでしょう」

 

もう、良い。こんな小説だったんだ。

冒頭の数行で、優しい家族の肖像が浮かぶ。

↓こんなのもある。

 

その時、隣りの部屋からしゃっくりをしながら、高校一年の明夫が入って来て、

「しゃっくり、止めてくれ」

といった。

すると、しゃっくりが出なくなった。

「あれ?本当に止った」

明夫はびっくりした声を出した。

「いままで止らなかったのに」

「これが本当のシャクトリ虫だ」

 

黒沢清『ニンゲン合格』を観る。

 

 

ふわ~、とした映画で、この映画自体が幽霊のような映画だった。

 

「おれ、存在した?ちゃんと、存在した?」

「ああ、お前は確実に、存在した」

 

 

■8/26

 

庄野潤三の残りを読む。

断片の連続がゆるやかにつながってくる感じ、小沼丹、小島信夫も思い浮かべた。いや、やっぱり全然違うけど、思い浮かんでしまったということはきっと何かあるはずだ。

 

そして、待望の待望の、保坂和志イベントへ。

6時間くらいずっとしゃべった。

胸いっぱいです。驚くことに、ほとんど何も覚えていない。

久しぶりに会った親戚のおじちゃん。

そんな感じだった。

 

 

 

■8/27

 

 

Astronauts,etc.の新作がいつのまにか出ていた。

これも、ふわ~、としたアルバムで、曲と曲の違いもよくわからないくらい・・・

 

柴崎友香『わたしがいなかった街で』を読み始める。

 

「中学の時に見た、たぶん『トワイライト・ゾーン』のテレビシリーズで、人間はずっとおんなじ場所に住んでると思ってるけど、実は一分ごとに新しく作られた世界に移動し続けてる、って話があって、たまに世界を作ってる人のミスで、たとえばソファに置いた新聞みたいなものを置き忘れることがあって、だからさっきまでそこにあったはずのモノがないっていうのはそのせいだ、って言ってて、妙に納得したんだよね。わたし、しょっちゅうモノなくすから」

 

柴崎さんのこの小説も、「移動」について。

 

 

■8/28

 

引き続き『わた街』。

 

 

■8/29

 

『わた街』読了。

 

目が痛くなる線香の煙をなんとかかわしながら、白い骨仏に手を合わせていると、ああやって死んでからたくさんの人たちの骨といっしょになるのは悪くなさそうだ、と思う。その膨大な灰の中には、友だちがいるかもしれないし、どこかで一度会っただけでどこの誰ともわからないけど気になっていた人がいるかもしれない。お参りに来る人の中にも、見たことある人がいるだろう。遠い過去も、近い過去も、ここでみんないっしょになって、「現在」の中に煤けた塊として存在し続ける。

 

1945年、2010年、大阪、東京、広島、沖縄・・・

「わたし」がいなかった街を、時を、想像することはできるだろうか。

この小説の登場人物たちは、違う時、違う場所で、たとえ一度も出会わなくても、どこか響きあっている―

そのことを、この小説を読んだ「わたし」は知っている。

 

 

■8/30

 

 

Liarsの新作が出るそう。

相変わらずこんな感じ!

 

ようやく、ザンブレノ『ヒロインズ』読み始める。

手に持った感触が素晴らしく、中身を確かめずに買ったが、読み始めてすぐに正しかったと確信に至る。

 

私が書いているのは、陰の歴史についての本。書かれた本の陰に隠れた歴史。

 

 

■8/31

 

 

んあ~!ここ最近聴いてきた中でこれが一番響いた!

 

引き続き『ヒロインズ』。

 

文学に少しでも手を染めた人なら誰しも、うすうすと感じていた「犠牲」の歴史。

最近読んでる本のタイトルになぞらえれば「文学は誰のために生まれた」という言葉が脳裏に思い浮かんだ。

日本文学だって、こうした「犠牲」によって生まれてきた、という文学史。

日本文学版『ヒロインズ』の登場が待たれる。

 

 

■9/1

 

 

この新境地にも驚いた。

世間的に新しくなくても、自分的に新しければそれでいいのだ。

 

『ヒロインズ』読了。

読んでいる間、常に銃口を突き付けられているようだった。

男に生まれること、そのものの原罪。

読みながら疑問に感じる部分もあった(たとえば、「ほんとに全部「被害者」って言えるのか?とか、全部「男vs女」の構図で考えていいのか?それって結局同じことじゃないの?とか)が、それでもこの一貫した「告発」は突き刺さった。

 

書きなさい。とにかく、何がなんでも書きなさい。うまく生きられず自分がめちゃくちゃになってしまったら、それについて書いて。そこから学びなさい。そう伝えた。あなたがこれまでしてきた経験が、文学の題材としてふさわしくないなんていうくだらない言葉を、絶対に、絶対に信じてはだめ、と。

 

ついに『寝ても覚めても』。

 

 

その前にこれ

 

を読む。

 

濱口:自分が他者であり、他者こそが自分である。その他者を消すことはできない。そうすると、自分が生きるということは、「自分の中の他者と共に生きること」の一択だと思います。それが「受け入れる」ということなのか、あるいは「闘い」なのかは分かりませんが、ほかに選択肢はないと感じています。

 

このインタビューはものすごい短時間で終わったそう。

これだけのことがすぐ言葉にできる、というのは・・・言葉と身体が一致している。

 

そして観た。観てしまった。

胸がいっぱいだ。

ちょっとまだ、到底言葉にできないが、

人間への絶対的な肯定がある。

世界への絶対的な肯定がある。

今はこれしか言えない。

 

 

■9/2

『寝ても覚めても』の余韻が続く。

『ユリイカ9月号 濱口竜介特集』を読む。

 

濱口:セリフを言っている人が撮れていればいいわけではなくて、そのセリフを聞いている人っていうのもちゃんと、しかも、セリフを聞いている以上、そこは非常に微細なものになってくるので、その微細さが伝わるようなかたちで撮らないといけない。

 

映画よりも人間を優先させる姿勢。

 

東出:面白いことがいくつもあって、たとえば監督が、「ニュアンスを抜いて、相手の心のなかの鈴を鳴らすつもりで台詞を言ってみてください」とおっしゃるんです。

 

このメソッドは、映画以外でこそ重要なんじゃないか。

映画よりも、人間。

 

http://kurashi.fujifilm.com/category/interview/100.html

すごい女優が誕生してしまった・・・

 

唐田さん:たくさん写真を見ていて、もちろん全部写真なのに「これは本当に写真だ」と思える写真があるんです。

−「本当に写真だ」と思える写真…。どのような写真なのでしょう?

唐田さん:なんだろうな…愛を感じるというか…。映画でも何に関してもそうですけれど、やっぱり愛を感じられるものはすごく素敵だと思うんです。

 

小松理虔『新復興論』(ゲンロン)、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(左右社)を買う。

 

『新復興論』は、買う前からこれ

 

を読んでいてぶちあがっていた。

一冊の本が生まれる過程、そしてそれを受け取る人たちの高まり。

「はじめに」だけ読み始める。

 

観光は常に外部へ扉を開く。同じように、思想もまた外部を切り捨てない。一〇〇年後、二〇〇年後を考え、「今ここ」を離れて思考が膨らんでいくものだ。地域づくりもまた、そうあるべきではないだろうか。ソトモノやワカモノ、未来の子どもたち、つまり外部を切り捨ててはいけない。今ここに暮らしている当事者の声のみで、地域をつくってはならないのだ。

 

 

 

TEXT:Kentaro Mori(世界的なバンド)

category:COLUMN

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