Thinking Framework – 考える枠組み vol.7

7. 現実に戻ってくる価値はあるのか

 

 

Text : Naohiro Nishikawa

Photo : Daiki Miyama

 

6年ぶりの長編小説となる村上春樹の『街とその不確かな壁』と、10年ぶりの長編アニメーションとなる宮崎駿の『君たちはどう生きるか』は、世界的に人気の二人の日本人作家の長く待たれた長編という背景だけではなく、内容から結末に至るまで驚くほど共通点の多い作品であった。

 

村上春樹の最新作となる『街とその不確かな壁』は、そのタイトルの示す通り実に43年前に書かれた中編小説『街と、その不確かな壁』を下敷きにしている。村上は、これまでも発表済の短編小説を拡張し長編小説にしたり(『蛍』からの『ノルウェイの森』や、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』からの『ねじまき鳥クロニクル』など)、短編の『めくらやなぎと眠る女』を改編した『めくらやなぎと、眠る女』など、自身の過去作を長編に組み込んだり改編し違うバージョンとして発表するということを度々行っている。

 

中編小説『街と、その不確かな壁』は1980年に三作目として書かれたものであるが、村上はその内容を気に行っておらず、本人の意向により単行本や全集にも収録されていない「幻」の作品となっている。しかしながら村上はその壁に囲まれた「街」に強いこだわりがあるようで、度々、作品に織り込んでいる。長編としては四作目となる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という別々の物語が交互に進むが「世界の終わり」のパートは『街と、その不確かな壁』で書かれた壁に囲まれた街の話だ。また『海辺のカフカ』は当初『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編として「街」やその壁の外の森に取り残された人たちを書こうとしたがうまく書けなかったとも語っている。

 

これらが示すように『街とその不確かな壁』は村上がこれまでずっと抱えていたが、技術的な問題や、その時々の別の仕事のために書けなかった「街」について、小説家としての技術を極めた晩年のこの時期に、正面から挑んだ小説といえるだろう。

 

一方の宮崎駿の『君たちはどう生きるか』も宮崎がこれまで抱えていたが、描けなかった幼少の頃の自身の置かれた環境や母への想いを反映させた自伝的な作品と言えるだろう。主人公である眞人は父親が航空機関連の会社を経営しており裕福であることや、戦争で東京から田舎に疎開すること、この作品で非常に重要になる母親への想い(作中では戦時中に亡くなり父親は母の妹と再婚することになるが、実際の宮崎の母親は戦時中には亡くなってはおらず長年病床に伏していたそうであるが)など、宮崎自身の幼少期の体験と重ねることができる。

 

長編アニメーションという多くの人が関わり、莫大な制作費と時間をかけて製作する決して失敗できないプロジェクトにおいて、これまでの成功の実績により、何をやっても許されるという環境を得た今だからこそ、そして最後の作品になるかも知れないからこそ、長年抱えていたが描けなかった自身の想いに決着を挑んだのであろう。

 

『街とその不確かな壁』では、主人公である<ぼく>が17歳のときに高校生エッセイ・コンクールの表彰式で出会った別の学校の一つ年下の少女に恋に落ちる。<ぼく>と電車で1時間半ほど離れた街に住む少女は手紙の交換からはじめ、やがて二人で長い時間を語り合う会う仲になる。会話を続けるなかで少女は「壁に囲まれた街」という少女が空想の中で作り上げた街の話をする。少女はこちらの世界の自分は本当の自分ではなく、本当の自分は「壁に囲まれた街」に住んでいるのだと打ち明ける。こちら側にいる私はあちら側の「街」に住む本物の私の影にすぎないのだと。

 

そして、少女は<ぼく>に宛てた長い手紙を最後に現実のこちら側の世界からこつ然と姿を消すことになる。<ぼく>は、こちら側の世界で恋に落ちた少女を永遠に失うのだ。

 

この少女の空想から生まれた「街」と現実の世界をつなぐ重要な役割を果たすのが「図書館」だ。<わたし>は向こう側の世界である「街」の「図書館」で夢読みとして働く。「街」では本物の少女も「図書館」で働いており、夢読みの<わたし>の手伝いのようなことをしている。一方、現実の世界で少女を永遠に失った<ぼく>は孤独のまま中年の<私>になり、45歳のときに長らく勤めた出版社を退職し、地方都市の「図書館」の館長として働くことになる。そこでも「図書館」はあちら側の世界とこちら側の世界を結ぶ特別な場所として機能する。

 

『君たちはどう生きるか』においても、眞人は入院中の母を空襲の火事で亡くす。幼少の眞人にとって母という存在は特別でかけがえのない存在と言えるだろう。その後、眞人の父親は実母の妹と再婚し、眞人は疎開先として父の故郷の大きな屋敷に、父と新しい母と一緒に暮らすことになる。

 

屋敷のそばには大叔父が立てた塔の形をした「書庫」がある。そこには大量の書物が保管されているが老朽化が激しく、眞人は近づかないように言いつけられている。『君たちはどう生きるか』では、この「書庫」が、『街とその不確かな壁』の「図書館」がそうであったように、こちら側とあちら側をつなぐ役割を果たす。

 

ある日、眞人の継母であるナツコが夕方になっても戻ってこなくなる。ナツコが森に入るのを見ていた眞人は、その足跡を追い「書庫」に入る。それをきっかけに、あちら側での冒険とファンタジーの、宮崎駿がこれまでに描いてきたあの世界に迷い込む。その世界では死んだ母も継母も若く美しく、屋敷で使いとして働く婆も若く勇ましい姿で描かれる。

 

世界的に人気の作家が抱きつづけたがこれまで書けなかったテーマに晩年になって取り組んだという背景。恋に落ちた少女/母を永遠になくしたこと。図書館/書庫という大量の書物、あるいは物語であり過去の記憶が保管された場所がこちら側とあちら側を繋ぐ役割を持つこと。あちら側には、こちら側では永遠に失った特別な存在である少女/母が存在していることと、シンクロニシティと言うべきか、両作はまるで申し合わせたかのように多くの部分が奇妙に一致する。

 

その極めつけは両作の物語の終わらせ方だ。<わたし>も眞人も、少女/母がいる、あちら側の世界を捨ててこちら側に戻ってくることを選ぶ。あちら側にはある種の理想の世界があるというのにだ。結局のところ本のページの最後に到達すれば、スタッフロールが流れれば我々読者/観客は強制的にその小説/映画の世界を追い出されこの現実の世界に戻ることになる。それにも関わらず、小説の映画の中で、むこうの世界から、こちらの現実の世界に戻る必要なんてあるのだろうか。そもそも、この現実に戻ってくる価値なんてあるのだろうかと思う。

 

村上は1949年生まれで、1968年に早稲田大学に入学している。60年代の終わりと言えばそれは政治の季節であり、作品であの時代の学生運動について特に運動の欺瞞について否定的に語ることはあるものの、社会に「異議申し立て」を行ってきた世代でありその一人だ。宮崎は1941年生まれと村上よりも8年早く生まれており、あの時代には学生ではなく東映動画の会社員であったが、東映動画労働組合の書記長を務めるなど、こちらも会社や社会やそのシステムに対して「異議申し立て」を行ってきたと言えるだろう。

 

つまり、彼らは社会に「異議申し立て」を行い、ある種の挫折を経験した後に、この現実の世界で各々のやり方で多くの成功を掴んだのだ。これは何も二人だけの特別な話ではない。この世代の多くが社会に「異議申し立て」を行った末に、うまく行かず挫折を経験するも、日本の経済成長に合わせ豊かに生きていくことができたのだ。だから、この現実が理想から大きく離れているとしても現実に戻れ。この現実もそこまで悪くないと経験的に言っているのだ。

 

しかし、今の若者が社会に不満を持ち「異議申し立て」を行い、独自のやり方で生きて行った末に、果たして豊かな暮らしを手に入れることができるのだろうか。もちろん、どんな時代であろうとそれができる人はいるだろう。ただ現実は彼らの時代のそれとはもはや大きく違ったハードモードだ。少なくとも経済成長に合わせて自然と収入が増え、一戸建ての庭付きの家をローンで買って夫婦と子供二人と愛犬と暮らすというような、彼らの時代に誰もが出来た暮らしは理念を妥協し社会への迎合がないと(場合によっては社会へ迎合したとしても)難しい時代になってしまっているのだ。

 

「街」を組み込んだ最初の長編である『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の最後で<僕>は「街」から脱出する方法を見つけながらも土壇場でその世界にとどまることを選ぶ。そして、こちら側の<私>は死を受け入れる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1985年に書かれた作品であるが、その結末の方が「外側」を求める今の気分に合っているのではないだろうか。

 

そしてもっと言えば、あちら側やこちら側のような二項対立に持ち込むのではなく、リアリズムの呪縛を超えて、あちら側やこちら側の垣根を壊すべきではないか。それがこれまでに村上や宮崎が行い文学の、映画の世界を前に推し進めて来たことであり、読む/見る我々の現実をも変えて来た、フィクションのファンタジーの力ではないだろうか。

 

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