Thinking Framework – 考える枠組み vol.9

9. システムと非システムの構造と力

 

 

Text : Naohiro Nishikawa

Photo : Daiki Miyama

 

現在に続く日本の一般層での現代思想の受容*1の源流ともいうべき浅田彰の『構造と力』が発売されて今年で41年になる。昨年は出版40周年を記念し文庫化もされた。そこから遡ること10年、2013年には30周年を記念して電子書籍版も出版されている。浅田は刊行30周年を記念した朝日新聞のインタヴュー*2で、現代の「どうせ資本主義しかない」というシニズムを批判し、別の現実を構想するヴィジョン、それらを総合した「思想」が必要だとし、次のように述べている。

 

現在、「難解」な理論や思想はもはや求められていないように見える。しかし、本当にそうか。グローバル資本主義が成立した結果、反資本主義の運動も世界中で激化している。もはや部分的社会工学ではカヴァーできない矛盾が噴出しているわけです。(引用者略)。利口ぶったプラグマティストは「あんなナイーヴなことを言って」とシニカルに構えるけれど、それは間違っている。原点に帰って現実を批判し、別の現実を構想することが、求められているのです。

 

『構造と力』はプレモダンからモダンの構造を説明し、それを乗り越え次の段階であるポストモダンに行くために現代思想、とりわけドゥルーズとガタリのリゾームをヒントとして提示する。ただ、このインタビューで浅田は、そこでやりたかったことは哲学や現代思想それ自体ではなく、それをヒントにあるいは道具にして世界を変革することだと言っているのだ。

 

このインタビューにもあるように、今から10年前と言えばグローバル資本主義の弊害が叫ばれ、反グローバル主義の活動が激化した時期だ。2008年のリーマンショックに端を発した世界金融危機とそれに伴う不景気は、その要因となった金融業界はもちろん普段はマクロ経済や金融投資から直接恩恵を受けていない多くの市民が影響を受けた。2011年の秋にウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)の合言葉を元にニューヨークのウォール街でアメリカ経済界に対する大規模な抗議行動が起こったのを覚えている人も多いだろう。

 

では、そこから10年経った現在、世界を取り巻く状況はどのように変わったか。グローバル資本主義は更に加速し、もはや資本主義と呼んでよいのかどうかすら怪しいプラットフォーム資本主義に移行している。

 

プラットフォーム資本主義とは、企業がデジタルデータを基本とする広義の商材を売買するプラットフォームを提供し、その上で他の企業や消費者が活動する経済モデルを指す。GAFAM (Google, Amazon, Facebook, Apple, Microsoft)に代表されるテクノロジー企業がなぜ時価総額の上位を占めているのか。それは彼らがプラットフォームを構築し、その領域において独占的な事業を展開しているからだ。

 

グローバル資本主義においては、多国籍企業がその資本力とグローバルなオペレーションによる合理化を後ろ盾に多くの国に進出しローカルな環境に競争を持ち込み、多様な文化を破壊することが問題とされた。スターバックスやマクドナルドの進出が分かりやすい例だろう。彼らがローカルなカフェやハンバーガーショップをいくつか殺したのは確かだろう。しかし、彼らは労働集約型の産業であり現地での雇用を生むし、同じようなチェーン展開を行っているのはグローバルな企業だけではなくローカルな企業でも同じことだ。彼らは競争しローカルな企業に負けることもある。

 

プラットフォーム資本主義の問題はデータの独占とネットワーク効果により一つの領域の市場を1社ないしは少数の数社で専有することだ。そして独占的な支配力によって、資本主義の利点とも言える競争を無効化し、彼らの原理をすべての人に押し付けることだ。

 

例えば、誰でもなんでも発言できる民主主義のためのツールだともてはやされたTwitterはイーロン・マスクに買収されると、マスクに批判的なジャーナリストのアカウントは停止され、「From the river to the sea」*3と発言したアカウントも停止すると警告された。Twitterに対抗して作られたInstagramのThreadsも一見オープンな姿勢のように見えるが、サービスを提供するのはFacebookのMeta社だ。Facebookの初期の大株主であり取締役はマスクと同じペイパルマフィアのドン、ピーター・ティールである。今ではティールとFacebookとの関係は薄くなってきているようだが、保守系のリバタリアンであるティールとその思想を共有するマスクとザッカーバーグが、我々の言論プラットフォームでの言論の自由を握っているのだ。つまり、マイクロブログサービスという言論プラットフォームにおいては、資本主義は加速し、右派加速主義が実現したと言える状態になっているのだ。そして右派加速主義とは言論の自由が抑制され、見たい情報ではなくプラットフォーマーの見せたい情報だけが流れる管理社会、プラットフォーマーによる封建主義のことだ。

 

Visaをはじめ、MastercardやAmerican Express、Diners Clubなどのグローバル資本のクレジットカードがニコニコ、DLsite、FANZA同人などの取引を停止していることも、プラットフォーマーによる言論の自由の抑制の一例だろう。国家が直接、国民の言論の自由を抑制するのは憲法違反となるし、他の国家に対しては内政干渉となり難しいが、プラットフォーマーを使えばそれが可能になるのだ。日本にはJCBがあるから安泰と言っていられるのも時間の問題かもしれない。決済系のサービスは金融庁の言いなりであるし、この国の官公庁が外圧に弱いのは説明するまでもないだろう。

 

グローバル資本主義では、例えばスターバックスが労働組合のパレスチナ支援を妨害したり、マクドナルドがイスラエルを支援したりすることに、消費者は不買運動という形で抗議ができる。ドトールやモスバーガーという代替もある。しかし、プラットフォーム資本主義の時代となるとこれはとても難しい。例えばGoogleをボイコットしようとして彼らが提供するサービスを一切使わず生活することができるだろうか。AmazonをボイコットしようとしてAmazonから本や日用品を買うことを辞めることができても、Webサービスや銀行の基幹システム、携帯電話の仮想ネットワークから行政サービスにまで使われ始めているAWSはもはや社会インフラであり、それをボイコットすることは現代的な生活を営む限り不可能だろう。開発拠点をイスラエルに置くIntelも、PCやスマートフォンは非Intelのそれを選ぶにしても、このWeb/銀行/行政サービスが使っているサーバーがIntelかどうかなんてのは調べようがないし、もしIntelだと分かったとしてもボイコットのしようがないのだ。

 

Uber Eatsらによるデリバリープラットフォームにも多くの問題がある。彼らは、配達員に好きなときに好きなだけ仕事ができ、人間関係にも悩まされることがない労働システムを提供しており、従来の人による支配/被支配の関係から労働者を解放しているとも言える。配達はすべてスマートフォンのアプリの指示に従えばよく計画経済の計画の部分をコンピュータに任せた左派加速主義の実装と見做せなくもないだろう。しかし、その実態は配達業務の低賃金化でしかない。配達員は配達のみに賃金が支払われる業務委託契約であり収入に保障がないばかりか、配達員同士の配達の取り合いという熾烈な競争にさらされている。配達件数よりも配達員が多いときにプラットフォーマーは、最も安く配達される金額まで配達料金を下げることもできるだろう。配達員が余っているときに、プラットフォーマーが配達員に必要以上の賃金を支払うインセンティブなどどこにもないのだ。逆に配達員の賃金を抑えられれば、配達料金を下げることができ、その結果、注文数が増えシステムの利用料金を増やすことができる。現在のデリバリープラットフォームは大量の投機資金で成り立っており、その投機を成功させることが最優先であり、左派方向に加速することなど絶対にないのだ。

 

デリバリープラットフォームの一番の問題は、その地域の貧富の差を利用していることだろう。レアジョブが日本とフィリピンの経済格差を利用して日本人に低価格の英会話レッスンを提供したり、「甘栗むいちゃいました」が中国農村部の安い労働力によって実現されていることが、国内の同じ地域の貧富の差を利用して行われているのだ。そして配達員は業務委託契約であり、配達に使う設備も配達収入の中から自分で用意する必要がある。つまり、彼らはAppleやGoogleが提供する別のプラットフォームであるスマートフォンの代金や通信費用も自分の収入の中から支払う必要があるのだ。

 

そういう視点で見ると、デリバリープラットフォームという一つのプラットフォームに関わる全てのアクター、料理を注文する人、注文を受けて調理する人、配達する人、そのシステムを運営する人、全てが、AppleやGoogle、バックエンドを支えるAmazonやMicrosoftに依存し、システム利用料という名の税金を払っているのだ。つまり、GAFAMのような巨大なプラットフォームはプラットフォームをも一つのアプリケーション、データ、ユーザーとしてデリバリープラットフォームで言うところの配達員として競わせ、働かせ、システム利用料を徴収するメタプラットフォームというべきものに変貌し、この世の中に偏在しているのだ。これがプラットフォーム資本主義の実態であり、浅田が『構造と力』で描いたクラインの壺の循環モデルの最新の形態なのだ。クラインの壺において循環する貨幣の外側がないように、プラットフォームの外側もないのだ。

 

* * *

 

再開発の進む渋谷*4の駅周辺を歩いてみると、新しく出来た高層ビルはGoogleやAbemaのプラットフォーマーのもので、プラットフォーム資本主義による市場の支配が現実のストリートにも侵食し始めていることに気づく。それらはまるで彼らの売上や時価総額を示すグラフのように上へ上へと伸びている。地下鉄に乗り換えるために地下に降りれば、壁一面の広告と柱に取り付けられたデジタルサイネージによる動画広告が否が応にも目に入る。歩くために見ざるをえないそれらはまるで、Webページに貼り付けられて読みたい記事を覆い隠す動画広告のようだ。

 

広告プラットフォームは検索や動画やSNSのタイムラインにだけではなく、移動にまで広告を仕掛けてきている。我々はもはや彼らのサービスを使っているわけでもないのに広告を見せられるのだ。こうして世の中に偏在するプラットフォームは、デジタルやネットワークの領域にとどまらずリアルな都市に染み出してきている。リアルとネットという二項対立は終わり、インターネットがリアルに染み出す時代を予言したポストインターネットは10年かけて、たぶん当初の目論見とは大きく違った形で現実のものになったのだ。

 

ゴールデンウィークの最終日である5月6日、プラットフォーム資本主義が可視化されたその渋谷で<Protest Rave>が行われた。「ダンスは抵抗である」というメッセージを掲げ、ストーリートでゲリラ的に活動を続ける彼らの今回のスローガンは「End Them All」というものだ。ここで終わらせたいものとは虐殺、占領、アパルトヘイト、シオニズム、人種差別、植民地主義、帝国主義、ファシズムのことで、今も解決されていない人が自由に生きる権利を脅かすシステムが作り出した問題と言えるだろう。『構造と力』の言葉を借りるなら人間の過剰なサンスであり欲動がもたらしたカオスだ。

 

ホームセンターで手に入れたような白木の木材をDIYで即興的に組み上げて作られたDJブースとその上に組まれた矢倉は、雨を避ける屋根もなく風が吹けば飛ばされるような頼りのないものだ。周囲を見渡す限りのRGBの原色の広告に包まれたハチ公前に、その矢倉はいかにも不釣り合いで、非システムを象徴した異物と言えるだろう。一方でDJが使うパイオニアのCDJとミキサー、PAシステムとそれによって鳴らされるFunktion Oneのスピーカー、コールに使われるマイクやそれを加工するエフェクタ類は、企業の大小はあるが資本が投下されシステム側が作ったものだ。

 

これで気づくのは、非システムはシステムが作ったものも使うことができるが、システムは非システムが使えるものが使えるとは限らないということだ。非システムはそこでレイブを開きみんなで踊りたいときにDIYでDJブースを作りシステムが作ったスピーカーを鳴らすことができる。しかしシステムは、例えばスクランブル交差点のビルにあるスターバックスが客の椅子が足りないときに、東急ハンズで木材を買ってDIYで即席のベンチを作ることはできないだろう。

 

もし非システムに勝ち目があるなら、このシステムと非システムの非対称性を利用することではないか。使える手段で言えば、非システムの方がシステムの手段に加え非システム固有のものが使える分、システムが使えるよりもずっと多いのだ。使える資金や量で負けたとしたも手段の数では勝てるのだ。これはシステムをプラットフォーマーに置き換えても同じことが言えるだろう。つまり非システムはプラットフォームを批判して使わないのではなく、批判して非システムのために利用するのだ。そしてそこにシステムが使えない非システムの手段を差し込み、プラットフォームのシステムを内側からコントロールするのだ。<Protest Rave>がプラットフォーム資本主義が現実に出現した渋谷のハチ公前に、非システムのDIYのレイブ空間を、つまりシステムの外側を作り目指したことはそういうことではないか。

 

レイブの終盤、みんなのきもちがかけるトランスに合わせたパレスチナの解放を求めるコールと踊るクラウド。そしてDIYで作られた頼りない矢倉の上に立ちパレスチナの国旗を高らかに掲げるMars89。それがどんなに頼りなく弱いものであっても矢倉は絶対に崩れないし、Mars89は絶対に落ちない。極彩色のシステムの広告に取り囲まれたハチ公前に作られた外側は、そういった楽観的な確信とユーフォリアに包まれていた。

 

同じ時期に出版された、ナージャ・トロコンニコワの『読書と暴動 プッシー・ライオットのアクティビズム入門』(野中モモ訳)はフェミニスト・パンク集団プッシー・ライオットの創立者である筆者がこれまでの政治活動を記した自伝であり、その背景にある思想とそれを彼女に与えたヒーロー達の列伝であり、サブタイトルにもあるように力なき個人が政治活動を行うためのハウ・トゥー本としても読めるだろう。

 

本書で重要なところは『暴動』だけでなく、『読書と暴動』であるところだ。お騒がせ集団としてメディアに取り上げられることも多いプッシー・ライオットであるが、なんの手がかりもなく闇雲に行動して世界を変えようとしているのではなく、先人の活動家や思想家の著作から知恵や思想を学び、インスピレーションを受けて実際の行動に移していることが分かる。そうした点で本書は『構造と力』と目的を共有する書物であり、『構造と力』が描ききれなかった世界を変革するための実践の書と言うこともできるだろう。本書は次の言葉で締めくくられている。

 

最後にこれは覚えておいて。トランプに反対するツイートをした全員が路上に現れてそこを動かなければ、トランプは1週間もせずに辞任に追い込まれるだろう。力なき者は力を持っているのだ。

 

力なき者は力を持っている。The powerless do have power. もう一度、僕らはその力を信じるときなのではないかと思う。たとえ目の前に見たくもない現実が突きつけられたとしても。

 

 

*1 このあたりの流れは佐々木敦著『ニッポンの思想』に詳しい。

 

*2 『構造と力』刊行30周年 https://realkyoto.jp/blog/kozotochikara/

 

*3 From the river to the sea (川から海まで)とはヨルダン川から地中海のこと。もともとパレスチナと呼ばれた地をパレスチナ人が取り戻すための政治的なスローガンとして使われている。https://en.wikipedia.org/wiki/From_the_river_to_the_sea

 

*4 蓮實重彦も渋谷の再開発に苦言を呈しているが麗郷が再開発でなくなるのは間違いなので訂正してほしい。 https://www.webchikuma.jp/articles/-/3242

category:COLUMN

tags:

RELATED

FEATURE