2023/09/01
6. 常識の外側へ
Text : Naohiro Nishikawa
Photo : Daiki Miyama
音楽のカルチャーはドラッグと分かちがたく結びついてきた。古くは1950年代のバッブとその後のハードバッブのジャズプレーヤーのヘロイン。60年代のヒッピームーブメントでの大麻やLSD。ギャングスタのクラック。セカンドサマーオブラブのエクスタシーつまりMDMAと、時代やシーンによって使われるものは違うが、ドラッグは音楽とそのカルチャーに分かちがたく結びつき、シーンを形成してきた。
現在の日本で、音楽とドラッグの関係をもっとも色濃く反映させたアーティストとして真っ先に思いつくのは、舐達麻をおいて他にいないだろう。麻を舐める達人というその名前の通り、大麻は彼らの存在において中心的なものとなっている。
それは、もちろんリリックにおていも顕著だ。「何処にも行かず此処でマリファナを嗜んだ/誰が居ても構わず/煙を吐いた」(GOOD DAY)、「毎日毎日スモークするマリファナ/俺が育ててる/俺と仲間達で育ててる」(BUDS MONTAGE)というように、彼らの世界において大麻は日常的にそこにあり、自分達で育て毎日使うものなのだ。
また、彼らの大麻に対する考え方は、典型的な大麻解禁論者とは一線を画す。多くの大麻解禁論者は、大麻は健康に対する害が少なく、依存性が低く安全だと説明し、大麻を禁止することに合理的な理由はないと主張する。しかし、舐達麻は違う。「依存性あり、だから何」(BLUE IN BEATS)である。依存性があろうが、安全性が低かろうが、法律で禁止されていようが、そんなことは彼らが大麻を吸う上では何ら関係ない。それが舐達麻を舐達麻とたらしめるアウトローの生き方なのだ。
大麻の栽培と所持は日本では犯罪とは言え、誰かに直接迷惑をかけるような種類のものではないとも言えるだろう。一方で、舐達麻は過去に金庫破りを行い警察に追われ、車で逃走時にコンクリートに激突しメンバーの104を亡くすという痛ましい事件を起こしている。この事件をリリックにしたのが『FLOATIN’』だ。
尾崎豊が『15の夜』で唄った「盗んだバイクで走り出す」というフレーズは、学校や家庭に縛られて自由にならないと感じる若者が、その自由に憧れや共感を示すものだが、現代の若者は「盗んだバイク」という時点で拒否反応を示し共感ができないという話がある。この話がどれくらい本当で普遍性のあるものかは定かではないが、法を破ることや、他人に迷惑をかけることを極端に嫌う今の日本社会に、なぜ舐達麻のアウトローは受け入れられたのか。YouTubeの『BUDS MONTAGE』が4600万回再生*1されているのみならず、なぜ地上波のテレビ番組*2 にも出演することができたのだろうか。
それはポピュラー音楽研究者の大和田俊之が言う*3ように彼らの持つ<詩情>、つまりポエジーの力に他ならないのではないか。社会と反社会という二項対立において、近年、強く嫌忌される反社会的な行動であっても、その<詩情>によって、幅広いリスナーからの支持を集めることができることを示したのだ。つまり、舐達麻は自身のアウトローとして生きる哀愁とビート、リリックが一体となった<詩情>の力によって、この二項対立を脱構築し、常識の外側に行くことができたのだ。なにも法を破ることやアウトローであることが常識の外側ではない。法を破ってもアウトローであっても世間に受け入れられたことが常識の外側なのだ。
ALLDAY / 舐達麻(prod by GREEN ASSASSIN DOLLAR)。2023年7月時点での最新曲。BUDS MONTAGE以来2年ぶりのGREEN ASSASSIN DOLLARのビート。7/11のMI_Dのトークによると曲は常に作っており、10曲程度が同時進行中とのこと
舐達麻のそれとはまた違った方法で、常識の外側を目指すアーティストがいる。それが食品まつり a.k.a Foodmanだ。食品まつりは、あらゆる音楽が出尽くしたと言われ、過去のスタイルからの引用と組み合わせのセンスでなんとか新しいものを生み出そうとしているこの時代において、未知の音楽、ビートを探し続けているアーティストの一人だ。
食品まつりは誰の真似でもないユニークな音楽を制作するために、自身が起こすエラーを活用すると話す。「すごいエラーが起きやすい人間。エラーが音楽的にいい方面に転ぶときがあって、そのエラーを別の視点の自分で編集する」*4と語っている。つまり自身のこれまでの蓄積や常識からは出てこない音を機材の操作ミス等によって偶発的に発生するエラーに求め、そのエラーを自身の音楽的な感性で編集するということだろう。
しかし、いくらエラーを起こしやすい人間と言ってもユニークなエラーというものがいつも起こるものだろうか。また、音楽的には外れ値であるエラーを自身の価値観のままで音楽的に良いと受け入れられるものだろうか。もし意図的ではなくエラーを多発させ、それを受け入れる自身の価値基準を変える方法があるとすれば、例えばそれはドラッグを使うことだろう。ドラッグでの酩酊により機材の操作ミスを起こしエラーを発生させ、意識を変革させ音の感じ方を変え価値基準を変えるのだ。そして食品まつりにおいてのドラッグとは、2016年にそのヤバさに気づいたというサウナだ。
食品まつりはTimeoutのインタビュー*5 で初めて正しい入り方でサウナを体験したときのことを、これは現代のサイケデリックカルチャーだと発言している。また、イギリスのメディアFACT magazineの人気企画『Against The Clock』*6には横浜のサウナから出演しており、「サウナで頭の中を真っ白にしてそこからトラックメイクをするといい曲ができる。いつもそんな感じでやっている。」との発言もあれば、LAの<Sun Ark Records>から2018年にリリースされた『Aru Otoko No Densetsu』ではそのものずばりの『Sauna』という曲や、ニューヨークの〈Palto Flats〉より2018年にリリースされた『Moriyama』には『Mizuburo』という曲もある。
こうした発言や曲名からも分かるように、食品まつりは自身の音楽と現代のサイケデリックカルチャーだと言うサウナを完全に結びつけている。そして、そのサイケデリック体験を引き起こすべくドラッグとなるものは、舐達麻や多くの先人達が使った法で禁じられたものではなく、むしろ健康的なイメージさえあるサウナだ。つまり、彼は音楽とドラッグというカルチャーを継承しながらも、ドラッグを使用することの社会/反社会という二項対立をサウナという反社会ではない手段によって軽やかに脱構築しているのだ。
サウナ以外にも食品まつりが関心を寄せるものは、最新アルバムである『Yasuragi Land』のリードトラックでもある『Michi No Eki』(道の駅)や、『Minsyuku』(民宿)、最近本人がSNSでも盛んに言及している『Aji Fly』(アジフライ)と、サウナと同じように日本の地方都市にも見られる土着的でクールと呼ぶには程遠いものばかりだ。
それでは、食品まつりがドラッグであるサウナを用い、道の駅や民宿、アジフライという非都会的であり、非システム的かつ非資本主義的なものを持ち出し、目指ものとはなにか。それはやはり現在の我々に不可避なシステムとして存在する資本主義の外側ではないかと思う。
それは『Yasuragi Land』がKode9主催の<Hyperdub>からリリースされたことからも見てとれる。Kode9ことスティーブ・グッドマンはウォーリック大学で哲学を専攻しており、「加速主義」の提唱者として知られるニック・ランドに師事し、ランドと彼の学生の哲学の実践の場であったサイバーネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit: CCRU)*7にも参加していた。最終的に同大学で哲学の博士号を取得しているKode9は、食品まつりの音楽のユニークさのみならず、システムの外側を目指すその態度をも感じとっているのではないだろうか。
いずれにせよ、食品まつりは既存のシステムに対して反システムとして二項対立に持ち込むのではなく、誰もが見逃していたあるいは見捨てていた土着的でかつ非システム的なものを持ち出し、軽やかにシステム/反システムを脱構築することで、この世界のシステムである資本主義の外側、常識の外側を目指しているのだ。それは資本主義のプロセスを加速することによって資本主義を破壊しようという試みよりも、より実践的な外側を目指す試みではないだろうか。
Foodman, Michi No Eki feat. Taigen Kawabe。1:40では「あ、間違えた」と作為的に起こしたと思われるエラーを取り込んでいる。
*1 2023年7月時点 https://www.youtube.com/watch?v=zaBp1Jh3Bkc
*2 2023年7月11日の深夜にフジテレビで放送された
M_IND https://www.fujitv.co.jp/m_ind/
*3 日本語ラップの現在(3)大和田俊之 舐達麻 激しさの奥に潜む哀愁
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO63858480V10C20A9BE0P00/
*4 2017年1月6日放送 特集 国内外で注目集める 新しい価値生む 孤高の電子音楽家 TV 神奈川
*5 サウナと創作 / ある男の蒸されエクスペリエンス、食品まつりの記憶の物語
https://www.timeout.jp/tokyo/ja/foodman-sauna
*6 Foodman (食品まつり) – Against The Clock
https://www.youtube.com/watch?v=sXIGR5_qC48
*7 CCRUやニック・ランドについては、木澤佐登志著 ニック・ランドと新反動主義 現在世界を覆う<ダーク>な思想 第3章ニック・ランドに詳しい
category:COLUMN
tags:Thinking Framework
2019/04/11
1. 2018年代 by Daiki Miyama 現代史は10年を単位としたディケイド、つまり年代で区切られ語られることがある。特に音楽やファッションなどのカルチャーはその様式の記号として年代が使われる。このスネアのリバーブは80年代っぽいとか、このスニーカーのハイテク感は90年代っぽいといった具合に。 しかし変化の進みが早く多様な音楽やファッションの様式を10年という単位で区切るのは無理があるように思う。音楽で90年代と言って思い浮かべるのはグランジだろうか、アシッドジャズだろうか、それともドラムンベースだろうか。ファッションにおいてもそうだ。90年代に今につながるハイテクスニーカーの多くが発明されブームになったのは確かだ。ただ 90年代の足元がすべてハイテクスニーカーだったかというと、当然そんなことはなく、ドクターマーチンなどの定番はもちろん、レッドウイングのエンジニアブーツや UGGのムートンブーツなどもブームになりよく履かれていたように思う。 それでも、10年という区切りが有効な分野もある。そのひとつが進みの遅い音楽メディアの物理フォーマットだ。リスナーが音楽を安心して購買し収集できるようにするためには、音楽メディアの物理フォーマットはファッションのトレンドのようにシーズン毎に変わるわけにはいかない。 レコードブームと言われて久しい昨今だが、アメリカに端を発するレコードブームはがいつから起こったかを考えるとそれは 2008年頃であったように思う。アメリカのレコード会社の業界団体であるアメリカレコード協会(RIAA)のデータによると CDの登場により落ち続けたレコードの売上が初めてプラスに転じるのは 2008年からだ。 USでのレコードの売上枚数。濃い青はアルバムとEP、薄い青はシングル盤を示している。これを見ると90年代のレコードはシングルで成り立っていたことがわかる。参照元:https://www.riaa.com/u-s-sales-database/ その 2008年に何が起こったかを振り返ると Captured Tracks、Mexican Summer、Acéphale、Big Love, The Trilogy Tapesや PANなど今に繋がるインディーシーンを作り上げたインディーレーベルがこぞって設立されたのが、この年だということに気づく。その前後も含めると Italians Do It Better、Secred Bones、DAIS、Burgerなどが2007年で一年早く、Posh IsolationやR.I.P Societyが2009年となる。これらのインディーレーベルの主要なメディアがレコードであることを考えると、2008年から続くレコードブームは彼ら新興のインディーレーベルが主導したブームであると言えるのではないだろうか。 また、スマートフォンや音楽関連のサービスを眺めてみると、世界で最初のスマートフォンであるiPhoneが登場したのが 2007年で、日本ではじめて発売されたiPhone 3Gが2008年。対抗する Androidも2008年に登場している。インディーレーベル御用達の Soundcloudと Bandcampができたのは共に 2007年なので、2008年は今に続く環境が一通り揃った年だったとも言える。 本連載『Thinking Framework – 考える枠組み』では、今に続くレコードブーム/インディーシーンの起源である 2008年をひとつの時代の始まりと捉え2008年代と呼ぶことにする。そうすると 2018年は必然的に 2018年代という新しいディケイドの最初の一年ということになり、今年 2019年はそのディケイドの二年目ということになる。 これは自分だけではなく、多くの人に共感してもらえる感覚ではないかと思うのだけどここ1、2年で何かが大きく変わるんじゃないかというゲームチェンジの予兆みたいなものがある。『10年後から振り返ればここが節目だった』本連載では、そういった視点で現在を捉え、ひとつの目として感じたことを伝えていければと思う。今の時点で振り返れば2008年がいろいろな始まりであったように、2018年は今後の 10年の方向性を決定付ける新しいディケイドの始まりとして後年に記憶される年となるような何かを。 Text by Naohiro Nishikawa
2019/04/19
2. すべてのことはメッセージか by Daiki Miyama アメリカは私は何者であるというアイデンティティの国であり、私の主張はこうだというメッセージの国でもある。ドナルド・トランプの「Make America Great Again」という選挙のスローガン、Nikeの「Just Do It」や Appleの 「Think Different」のキャッチコピーは当然として、音楽界隈でもこうした メッセージが溢れている。 古くはウッディ・ガスリーのギターに書かれた「This Machine Kills Fascists」。なぜかノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの『Subterranean Homesick Blues』のミュージックビデオに見るメッセージボード(これはピチカート・ファイブのそのものずばり『メッセージソング』のミュージックビデオでも少しだけ引用されている)。最近 Vetementsがコピーして話題になったカート・コバーンのTシャツ「Corporate Magazine Still Suck」もそうだ。 「目にうつるすべてのことはメッセージ」と歌ったのは荒井由実で、この歌は小さい頃は感受性が高くすべてのものからメッセージを受けとることができたという受けて側の話だが、子供でなくても感受性がそれほどでなくても、すべてのものがメッセージを発している。それがアメリカという国だ。 アメリカがシンプルな言葉を使った直接的なメッセージで溢れているのであれば当然それを逆手にとった表現もある。60年代から活躍するアーティストであ るエド・ルシェはシンプルな言葉をキャンバスに描いているが明確なメッセージを意図的に排除した作品を制作してきた。「Japan Is America」のような戦後の日本を批評的に表したような鋭い作品もあるが、多くの作品は抽象的で多 義的であり言葉の意味性を曖昧にしている。 アンディー・ウォーホルの『129 Die in Jet!』は129人が飛行機で死んだと衝撃的な文字が飛び込むが、これは1962年に実際に起きた飛行機事故を報じた New York Mirrorの紙面をそのまま模写したものだ。シンプルで強い言葉が並びなんらかのメッセージを示したサインボードのようにも映るが、そこにある のはメッセージではなく揺るぎない事実だ。 左からEd Ruscha、Andy Warhol、Barbara Kruger 言葉を使ったアーティストと言えば、バーバラ・クルーガーにも言及すべきだろ う。彼女の代表作であるデカルトの「I think, therefore I am(我思う、ゆえに我あり)」をもじった『I shop therefore I am』は消費主義を批判したメッセージ性の強い作品だ。しかしその赤のボックスに白のFuturaフォントを Supremeがロゴとしてコピーし、(もう誰も覚えていないと思うが佐藤可士和も スマップのキャンペーンでコピーしていた)商品として消費されることで、本 来の消費主義批判が消費主義賛歌のスローガンのようにも見える面白さがある。 私は買い物する、ゆえに私である。高額なブランド品を買う動機付けのマントラとして、メッセージは逆転する。 これら先人が行ってきた言葉とメッセージの関係の解体をさらに推し進めるの が、現行のアーティストであるLAのカリ・ソーンヒル・デウィットだ。彼の代表作である事件現場や動物、薬や札束などの強い写真の上と下に写真との関連 が不明確な一見ランダムとさえ思える強い言葉を配置したサインボードは、見る者の社会性や政治的な志向、過去の経験などを通じて様々な事象を思い起こさせる。そして、その強い写真と強い言葉の関連の不明確さに、本来そこにあ るはずのメッセージの不在に見る者は戸惑い揺さぶられる。 Cali Thornhill DeWitt OFF-WHITEのヴァージル・アブローは、このメッセージなき言葉をファッションに持ち込む。Nikeの Air
2019/07/07
5. バーニング by Daiki Miyama 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』を原作としたイ・チャンドンの『バーニング』は独特のトーンに覆われた静かで美しい映画だった。 原作は小説家であり妻帯者である物語の語り部となる<僕>と、たまにモデルの仕事をしているが自由人である年が一回り下の女の子<彼女>との都会的でカジュアルな関係から始まる。 あるとき彼女はバーのカウンターで僕と世間話をしながら、実際には無い蜜柑をむいて食べるパントマイムを行う。その動作に「まわりから現実感が吸い取られていくような」特別なものを感じ関心する僕に彼女は説明する「こんなの簡単よ。そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」と。 「ない」ということを忘れる。この実在と非実在の関係がこの物語では重要なテーマとなる。 その後、親の遺産を手にした彼女はナイジェリアに長い旅行にでかけ、現地で知り合った日本人のボーイフレンドと帰国する。その貿易商を営んでいるらしい男が加わり物語は別の方向へ進み出す。 映画もこの実在と非実在の関係をテーマに原作と同じように物語が進む。ただ映画と原作では大きく異なるところがある。それは社会との関係であり距離の取り方だ。 村上春樹の作品群は、社会との関係によって大きく二つの期間*1 に分けることができる。最初はなるべく社会との関わりを持たないようにした期間で、デタッチメント期と呼ばれる。この期間は彼がデビューした1979年から1993年頃まで続く。長編で言うと『風の歌を聴け』から『国境の南、太陽の西』がこの期間に書かれた。次の期間は社会との関わりを積極的に持とうとした期間でコミットメント期と呼ばれる。コミットメント期は1994年頃から始まり現在も続いている。長編で言うと『ねじまき鳥クロニクル』からとなる。 原作の『納屋を焼く』は1983年に書かれたデタッチメント期の作品であり、80年代という時代性もあるが、現実の社会と切り離されたどこか浮世離れした世界の物語だ。それに対して映画は舞台を現在の韓国に移し、積極的に現実の社会と地続きである現在の韓国とその中で生きる若者を描こうとする。 物語の視点となる<僕>は小説家でもなければ妻帯者でもない。素朴な風貌の兵役帰りで小説家志望ではあるが、まだ何も書いていない無職の青年ジョンスに。<彼女>は年の離れた女の子ではなくジョンスの幼じみのヘミになる。二人の関係もカジュアルなものではなく、量販店のコンパニオンと客として再会するとすぐに恋仲となる。 ヘミがアフリカへの旅行中に知り合い一緒に帰国する男ベンだけは原作と同じ設定であるが、原作ではフラットであった僕ジョンスとの関係は映画では少し異なる。ジョンスがニートのような生活をしていることやヘミへの思いが強いことからか、ジョンスは若くして金持ちのベンを訝しがり、ヘミを取り合う三角関係のようになる。 原作には仕事をしているようでもなく、何をして金を得ているか分からない男に対して僕が「まるでギャッズビーだね」とつぶやく描写がある。映画でもジョンスは同じセリフを吐くが「韓国にはギャッズビーが多い」と付け加える。 これは、日雇い労働のようなことをしながら日銭を稼ぐジョンスからみた韓国の富裕層の姿であり、どちらか一方に固定化してしまった格差社会を揶揄しているのだろう。そういった原作には無かった現実の社会問題の描写が映画には随所に散りばめられている。 映画の中盤のハイライトで物語が動き出す、ジョンスの実家の庭で三人が大麻を吸うシーンもそうだ。ジョンスの暮らす誰もいなくなった実家は北朝鮮との軍事境界線の近くにあり、日中は北朝鮮のプロバガンダ放送が休みなく聞こえる。 ヘミが大麻を吸ってリラックスし上半身裸になって踊り出すシーンは、この映画でもっとも美しいシーンの一つであるが、ヘミが空中に投げ出す両手の先にはマジックアワーの幻想的な夕焼け空をバックに韓国の国旗が映る。 更に面白いのは、この作品は原作の『納屋を焼く』ではなく村上春樹がデタッチメント期からコミットメント期に移行する最初の長編小説である『ねじまき鳥クロニクル』から着想を得たと思われるシーンをいくつか盛り込んでいるところだ。 『ねじまき鳥クロニクル』では猫がいなくなるところから物語が始まるが、ヘミが飼っている姿を見せない猫もやはりいなくなる。ジョンスの実家ににかかる無言電話も最終的には妻クミコからだと気づくことになる謎の女からの電話や、取られることの無かった電話を思わせる。 極め付けはヘミが幼い頃に井戸に落ちているということだろう。『ねじまき鳥クロニクル』で井戸とは、ノモンハンで間宮中尉が銃殺の代わりに落ちることになった井戸であり、主人公のオカダトオルが自ら下りた世田谷の井戸だ。冷たい井戸の底でオカダトオルはひとりでじっと考える。考えることによって現実の壁を抜け、時空を超えて様々なものと繋がることになる。それは行方不明の妻であり、ノモンハンから現在に形を変えながらも続く絶対的な悪、現代の日本社会が未だ清算することのできていない負債の一部だ。 昨今、ラジオDJを務めるなど小説や翻訳以外での活動も慌ただしい村上春樹は、朝日新聞の「平成の30冊」の企画で、自身の作品が1位に『1Q84』と10位に『ねじまき鳥クロニクル』と二作が選ばれたことで、インタビュー*2 に応じている。 この自身の活動を振り返るインタビューで、『ねじまき鳥クロニクル』の『壁抜け』を語ったあと、95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こります。という社会との関係を問われた質問に村上春樹は以下のように答えている。 「個人的な信念として、小説家は作品がすべてで、正しいことばっかり言っていると作品はろくなことにならないと思っている。ただ、作家といっても一市民であるわけで、小説家としてのアイデンティティーやレベルを保ちつつ、市民として正しいことをしないといけない。正論ばかり言ってイマジネーションが壊れないよう、バランスを保つのが大事だけど。」 正論ばかり言っていると想像力が壊れる。インタビューを書き起こした文章なので、どれくらい本気で言っているかが分かりにくいが、こういうことを何のてらいもなくさらりと言えるところが、村上春樹の強さであり資質であるように思う。 そして『納屋を焼く』の物語と『ねじまき鳥クロニクル』の想像によっ壁を抜けて現在の社会を描くことができるという力を借りて、韓国の現代社会を描こうとしたイ・チャンドンもまた、この正論よりも想像こそが大切だということを信じている一人であり、イ・チャンドンが村上春樹の作品から読み取り自作に反映したかったことなのではないかと思う。 この映画の最大の謎であるヘミの喪失は、見るものに想像力を働かせることを要求する。ジョンスから見た視点は一方的な視点であり本当に正しいのか。その正論は本当に正論であり正義なのかということを見る我々に突きつける。その視座が出口のない物語と同じように不条理と感じる、この現実社会に有効なのは正論ではなく想像力だということに気づかせてくれるのだ。 Text by Naohiro Nishikawa (Thinking Framework 2018-2019 前編完) *1 村上春樹本人はデタッチメント期を更に二つに分け、物語を指向する前の作品をアフォリズム(格言)の時期としている。この期間に書かれた長編作品『風の歌を聴け』と『1978年のピンボール』を本人は習作として気に入っていないようで、この二作を別の期間だったと定義しているのではないかと思う。本人が気に入っていなかったことは、英訳があるにも関わらず長らく英語版が日本国外では発売されていなかったことからも分かる。 *2 https://book.asahi.com/article/12182812
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