2019/05/02
3. ダークウェブと新しい実在論
ティム・バーナーズ=リーがワールド・ワイド・ウェブの元となるハイパーテキストシステムを構想し今年で30年になる。彼はウェブの30年を記念した書簡で現状のウェブには次の問題があると述べている。*1
1) 国家ぐるみのハッキングや攻撃、犯罪行為やオンラインハラスメントのような計画的な悪意
2) ユーザーの利益を犠牲にして誤ったインセンティブを生み出すシステムデザイン、例えば広告売上モデルで商業的報酬を狙ったクリックベイトや偽情報の拡散
3) 暴力や偏見に満ちた調子や性質を持つオンラインでのやりとりが、優れたデザインに反して負の結果をもたらすこと
しかしこれらは本当にウェブ、つまりインターネットだけの問題だろうか。1)は反社会的な国家が秘密裏に核爆弾や覚醒剤を製造したり、現実から犯罪やハラスメントがなくならないことに、2)は例えばクレジットカードの情報弱者を騙すリボ払いや面倒だが使わないと損をするポイント制度に、3)は学校の教室や職場などいろんな人間が集まり「自由に議論ができる」とされる場所に普通に見られることであり、どれも現実にある問題と同じではないかと思う。
ティム・バーナーズ=リーのようなシステム屋はこれらの問題をシステムで解決しようと考える。しかしインターネットは彼の構想した様々なテキストを横断的に参照することができるハーパーテキストシステムを超えてもはや現実の一部だ。よってインターネットが現実と同じ問題を持つのは当然の帰結であり、もしこれらの問題を解決したいと思うなら、現実こそを変えるべきではないか。そうではなく、もしインターネットだけをシステムで行動に制限をつけ、彼の考える負の部分をごっそりと削り落としたなら。それは『CODE』でローレンス・レッシグが警告するように現実とはまた別の息苦しい世界となってしまうだろう。
一方で、インターネットは現実とは違うもう一つの世界だと考えたい人達がいるのも事実だ。テレビや新聞などの旧来のメディアが伝える「ネットの声」というのもその一つだろう。それとは別に、現実世界と違いインターネットに行動の匿名性、現実世界では犯罪となるようなものを含めた最大限の自由を求める人達もいる。
もちろん、通常のインターネットでは多くの人が知るように本当の意味での匿名性は担保されていない。もしあなたがインターネットの匿名とされる掲示板に犯罪予告を書けば、次の日曜日の朝に警察がインターホンを鳴らすことになるだろう。これはその掲示板のサーバに書き込みを行ったIPアドレスと時刻が、インターネット・サービス・プロバイダにはそのIPアドレスをその時間に使ったのが誰かがそれぞれ記録されており、警察の要請により開示されるからだ。
逆に言うとこの「IPアドレス」と「そのとき誰が使ったか」という関係を誰にも分からないようにすれば、インターネットでの通信を匿名にすることができる。それを可能にするソフトウェアの一つが2012年に起きた「パソコン遠隔操作事件」でも使われたTorだ。
Torには匿名でインターネット上のサーバーに接続するという機能だけでなく、Torのネットワーク内にTor経由でのみアクセス可能なサーバを匿名で立ち上げることができる。この機能を使って構築された誰が開設したのか、誰がアクセスしたのかが分からないサーバ群が「ダークウェブ」と呼ばれる、完全な匿名性が保たれた現実とは違うもう一つのインターネットだ。
この完全に匿名なインターネットが手に入ると人は何をするのか。木澤佐登志著の『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』はダークウェブとその基盤となる暗号学の基礎的な説明*2 から始まり、その住人たちの行動とその変遷を書き記す。
大方の予想通りというべきか、最初に書かれるのは現実のインターネットからは排除された違法な行為だ。特にBitcoinに代表される仮想通貨による金銭の受け渡し手段が確立されると、無料でコピー可能な情報の交換だけではなく物質と金銭の交換。つまりは違法な物の販売も可能となる。
それは法律で禁止された違法薬物の販売から始まり、現実世界からは見放された児童ポルノ、臓器売買、人身売買、殺人請負と真偽が疑わしいものへとエスカレートしていく。そこにはなんでもありだった現実になる前のインターネットや海外のパソコン通信がその過激さだけが誇張され伝えられたあの雰囲気。『危ない1号』や今でもクーロン黒沢が描き続けるあの世界が続く。
本書の見所は、そういった見世物やタブロイド紙的な下世話さだけに止まらず、その根底に流れる思想に行き着くところだ。それも新しい技術が正しい未来を作る『Wired』誌的な思想とは真逆の、民主主義やリベラルを否定する陽の光の下では育たないダークな思想、とりわけ現在のアメリカが突き進む新反動主義(Neoreactionism)へと誘う。
もともとの反動主義とは、革命や終戦で成立した体制を批判し、素晴らしい時代である過去の体制に戻そうとする思想だ。フランス革命を否定し王政を復古したい。共産主義革命を否定し君主制に戻りたい。戦勝国に押し付けられた民主主義を否定し軍国主義に戻したいなどがそれだ。
では、新しい反動主義である新反動主義が否定する現在とは何か。それは行き過ぎたとされる民主主義であり、誰もが平等であるべきという考え、つまり狙われるのはポリティカル・コレクトネスでありリベラルだ。
この新反動主義は Alta-right(オルタナ右翼。つまりはアメリカ版ネトウヨ)と言われる層の基盤となり、ドナルド・トランプを生み出すことにも繋がる。トランプの「政治的な正しさに構っている暇はない」という発言や「Make America Great Again」というスローガンは実に新反動主義的であると言えるだろう。
さらに特筆すべきは、この思想的潮流はなにも新しい技術と産業によって好景気を維持するアメリカから取り残された、田舎に住む白人男性の昔は良かったというノスタルジックな願望だけから生まれた訳ではない。こういった考え方がある程度以上の地位にあるエリート層からも発せられるところだ。例えばPayPalの創業者であり、シリコンバレーのテック業界に多大な影響力を持つPayPalマフィアのドン、ピーター・ティールはリバタリアンでありトランプ支持者だ。
こういった反リベラル主義者やトランプ支持者に対して、リベラルの側は彼らの言説、政策にはエビデンスが無い。感情が優先された間違った言説により世論を間違った方向に導いている。ポスト・トゥルース、真実に基づかない政治だと批判してきた。
それに対する反リベラルの側からの「知的」とされる反論も当然ある。そのリアクションの一つが科学的エビデンスを重視し反リベラルな主張をインターネット上で展開する学者や言論人のネットワーク、「インテレクチュアル・ダークウェブ」*3 だ。
彼らは、ジェンダーや人種の間には乗り越えがたい生物学的差異が存在しており、それは諸々の科学的、統計学的エビデンスによって証明されている。よって行き過ぎたリベラル社会、例えば、IT企業においてプログラミングが不向きとされる女性の雇用を促進することは非合理であり、不利益をもたらすと主張する。
しかし、当然ながら思想であるリベラルに合理性を示すエビデンスなんてものは無い。リベラルの思想の中心である自由であり平等というコンセプトは合理的だから採用されている訳ではない。たとえ全体としては不合理であったとしても誰もが自由に生きるためにはどうすべきかを考えた上でのコンセプトだ。それは決してエビデンスで測れるようなものではないのだ。
生物学的な差異や、自然の摂理、自然界で見られた現象などをエビデンスとして、人間や人間社会に当てはめることがなぜ間違っているのか。それを説明するのがドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの近著『なぜ世界は存在しないのか』だ。
ガブリエルは本書の中で、全ての物は実在すると説明する。例えば山手線は実在する路線でありそこを走る電車のことだが、ある人が乗る山手線も、その車両を別の人が外から見たものも、また別の人が空想した山手線も等しく実在するとすれば、創作に登場する山手線もまた創作として実在するとする。
このようにガブリエルは本当にあるものは当然として、その別の見方も、ある人の想像の中にあるものも、創作の中に登場するものも全て実在するとする。ただ一つ、それら全てをまとめる世界というものだけは存在しないと言う。
例えば人間を語るとき、物質として見ると全体の60%が水で酸素が25%、炭素が10%というような分析が可能である。医学的には体重や体脂肪率、血圧や肝機能で人間の健康状態を測ることができる。一方、文学では登場人物として恋をしたり振られたり、誰かを恨んだり恨まれたりもするだろう。
これらは物質という世界、医学としてみた世界、文学としてみた世界とそれぞれ独立した小さな世界の中での人間であり、同じ人間というものを扱っていても、それらを混ぜることはできない。人間の60%は水でできているから恋は冷めるのだと説明することもできなければ、登場人物の体脂肪率が低いからストイックな文学作品だということもないのだ。
つまり、エビデンスで測れる世界と人間社会がどうあるべきかという思想の世界は別の世界であり、一方の物差しによってもう一方を測り説明することはできない。こういった至極当然であるが、当然であるだけになかなか説明の難しいことを事例を交え丁寧に説明する本書は、一段上のメタな抽象度の高い世界で考えることが時に現実の具体的な問題を説明するということを教えてくれる。
Text by Naohiro Nishikawa
*1 30 years on, what’s next #ForTheWeb?
*2 本書の第1章でダークウェブの成り立ちを現代の暗号学の基礎から語り始める導入は非常にセクシーであるが、数学的という説明は少し誤解を与えるように思う。なぜなら現在使われる暗号の解読に必要な計算量は数学的には証明されていないからだ。公開鍵暗号で使われるRSA暗号は巨大な合成数の素因数分解の難しさに依存するため、その計算量は数学的に証明はされてはいないものの、その難しさはこれまでの数学の歴史によってある程度は担保されると思ってよいだろう。しかし現在、一方向ハッシュ関数としてもっとも使われているSHA-2を数学的というのはかなり怪しい。実際のところその前身であるSAH-1は脆弱性が見つかっている。そもそも一方向ハッシュ関数のあらゆるデータを衝突のない固定ビットで表すというコンセプト自体に無理があるようにも思う。
*3 「インテレクチュアル・ダークウェブ」に関してはダークウェブ本の著者である木澤佐登志氏の『欧米を揺るがす「インテレクチュアル・ダークウェブ」のヤバい存在感』https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59351に詳しい。本稿の「インテレクチュアル・ダークウェブ」に関する記述はこの記事から引用している。
category:COLUMN
2019/04/11
1. 2018年代 by Daiki Miyama 現代史は10年を単位としたディケイド、つまり年代で区切られ語られることがある。特に音楽やファッションなどのカルチャーはその様式の記号として年代が使われる。このスネアのリバーブは80年代っぽいとか、このスニーカーのハイテク感は90年代っぽいといった具合に。 しかし変化の進みが早く多様な音楽やファッションの様式を10年という単位で区切るのは無理があるように思う。音楽で90年代と言って思い浮かべるのはグランジだろうか、アシッドジャズだろうか、それともドラムンベースだろうか。ファッションにおいてもそうだ。90年代に今につながるハイテクスニーカーの多くが発明されブームになったのは確かだ。ただ 90年代の足元がすべてハイテクスニーカーだったかというと、当然そんなことはなく、ドクターマーチンなどの定番はもちろん、レッドウイングのエンジニアブーツや UGGのムートンブーツなどもブームになりよく履かれていたように思う。 それでも、10年という区切りが有効な分野もある。そのひとつが進みの遅い音楽メディアの物理フォーマットだ。リスナーが音楽を安心して購買し収集できるようにするためには、音楽メディアの物理フォーマットはファッションのトレンドのようにシーズン毎に変わるわけにはいかない。 レコードブームと言われて久しい昨今だが、アメリカに端を発するレコードブームはがいつから起こったかを考えるとそれは 2008年頃であったように思う。アメリカのレコード会社の業界団体であるアメリカレコード協会(RIAA)のデータによると CDの登場により落ち続けたレコードの売上が初めてプラスに転じるのは 2008年からだ。 USでのレコードの売上枚数。濃い青はアルバムとEP、薄い青はシングル盤を示している。これを見ると90年代のレコードはシングルで成り立っていたことがわかる。参照元:https://www.riaa.com/u-s-sales-database/ その 2008年に何が起こったかを振り返ると Captured Tracks、Mexican Summer、Acéphale、Big Love, The Trilogy Tapesや PANなど今に繋がるインディーシーンを作り上げたインディーレーベルがこぞって設立されたのが、この年だということに気づく。その前後も含めると Italians Do It Better、Secred Bones、DAIS、Burgerなどが2007年で一年早く、Posh IsolationやR.I.P Societyが2009年となる。これらのインディーレーベルの主要なメディアがレコードであることを考えると、2008年から続くレコードブームは彼ら新興のインディーレーベルが主導したブームであると言えるのではないだろうか。 また、スマートフォンや音楽関連のサービスを眺めてみると、世界で最初のスマートフォンであるiPhoneが登場したのが 2007年で、日本ではじめて発売されたiPhone 3Gが2008年。対抗する Androidも2008年に登場している。インディーレーベル御用達の Soundcloudと Bandcampができたのは共に 2007年なので、2008年は今に続く環境が一通り揃った年だったとも言える。 本連載『Thinking Framework – 考える枠組み』では、今に続くレコードブーム/インディーシーンの起源である 2008年をひとつの時代の始まりと捉え2008年代と呼ぶことにする。そうすると 2018年は必然的に 2018年代という新しいディケイドの最初の一年ということになり、今年 2019年はそのディケイドの二年目ということになる。 これは自分だけではなく、多くの人に共感してもらえる感覚ではないかと思うのだけどここ1、2年で何かが大きく変わるんじゃないかというゲームチェンジの予兆みたいなものがある。『10年後から振り返ればここが節目だった』本連載では、そういった視点で現在を捉え、ひとつの目として感じたことを伝えていければと思う。今の時点で振り返れば2008年がいろいろな始まりであったように、2018年は今後の 10年の方向性を決定付ける新しいディケイドの始まりとして後年に記憶される年となるような何かを。 Text by Naohiro Nishikawa
2019/04/19
2. すべてのことはメッセージか by Daiki Miyama アメリカは私は何者であるというアイデンティティの国であり、私の主張はこうだというメッセージの国でもある。ドナルド・トランプの「Make America Great Again」という選挙のスローガン、Nikeの「Just Do It」や Appleの 「Think Different」のキャッチコピーは当然として、音楽界隈でもこうした メッセージが溢れている。 古くはウッディ・ガスリーのギターに書かれた「This Machine Kills Fascists」。なぜかノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの『Subterranean Homesick Blues』のミュージックビデオに見るメッセージボード(これはピチカート・ファイブのそのものずばり『メッセージソング』のミュージックビデオでも少しだけ引用されている)。最近 Vetementsがコピーして話題になったカート・コバーンのTシャツ「Corporate Magazine Still Suck」もそうだ。 「目にうつるすべてのことはメッセージ」と歌ったのは荒井由実で、この歌は小さい頃は感受性が高くすべてのものからメッセージを受けとることができたという受けて側の話だが、子供でなくても感受性がそれほどでなくても、すべてのものがメッセージを発している。それがアメリカという国だ。 アメリカがシンプルな言葉を使った直接的なメッセージで溢れているのであれば当然それを逆手にとった表現もある。60年代から活躍するアーティストであ るエド・ルシェはシンプルな言葉をキャンバスに描いているが明確なメッセージを意図的に排除した作品を制作してきた。「Japan Is America」のような戦後の日本を批評的に表したような鋭い作品もあるが、多くの作品は抽象的で多 義的であり言葉の意味性を曖昧にしている。 アンディー・ウォーホルの『129 Die in Jet!』は129人が飛行機で死んだと衝撃的な文字が飛び込むが、これは1962年に実際に起きた飛行機事故を報じた New York Mirrorの紙面をそのまま模写したものだ。シンプルで強い言葉が並びなんらかのメッセージを示したサインボードのようにも映るが、そこにある のはメッセージではなく揺るぎない事実だ。 左からEd Ruscha、Andy Warhol、Barbara Kruger 言葉を使ったアーティストと言えば、バーバラ・クルーガーにも言及すべきだろ う。彼女の代表作であるデカルトの「I think, therefore I am(我思う、ゆえに我あり)」をもじった『I shop therefore I am』は消費主義を批判したメッセージ性の強い作品だ。しかしその赤のボックスに白のFuturaフォントを Supremeがロゴとしてコピーし、(もう誰も覚えていないと思うが佐藤可士和も スマップのキャンペーンでコピーしていた)商品として消費されることで、本 来の消費主義批判が消費主義賛歌のスローガンのようにも見える面白さがある。 私は買い物する、ゆえに私である。高額なブランド品を買う動機付けのマントラとして、メッセージは逆転する。 これら先人が行ってきた言葉とメッセージの関係の解体をさらに推し進めるの が、現行のアーティストであるLAのカリ・ソーンヒル・デウィットだ。彼の代表作である事件現場や動物、薬や札束などの強い写真の上と下に写真との関連 が不明確な一見ランダムとさえ思える強い言葉を配置したサインボードは、見る者の社会性や政治的な志向、過去の経験などを通じて様々な事象を思い起こさせる。そして、その強い写真と強い言葉の関連の不明確さに、本来そこにあ るはずのメッセージの不在に見る者は戸惑い揺さぶられる。 Cali Thornhill DeWitt OFF-WHITEのヴァージル・アブローは、このメッセージなき言葉をファッションに持ち込む。Nikeの Air
2019/05/09
4. 内燃機関の哀しみ by Daiki Miyama 2017年7月、フランス政府がガソリンおよびディーゼルエンジン、つまり内燃機関を搭載した車の販売を2040年までに終了すると宣言した。イギリスもそれに呼応し同様の宣言を行った。車が個別に内燃機関で燃料を爆破させ運動エネルギーを得るよりも、発電所で燃料を燃やすなどし電気を作り車はモーターで走らせた方がエネルギー効率が高く、二酸化炭素の排出量を低減できるのが狙いだ。 この電気自動車への転換は環境問題に積極的な北欧や、車の生産に依存していない国だけでなく、自動車生産大国であるドイツまでもが内燃機関の自動車の販売を禁止する議論を始めている。つまり近い将来、内燃機関は蒸気機関や真空管のように失われた技術になるのだ。 ある技術が別の技術に取って代えられようとするとき、旧来の技術が異質な進化を遂げることがある。例えば SSDに取って代わることが宿命であるHDDが SMR(Shingled Magnetic Recording。データの書き込みを隣のトラックと瓦のように重ねて行うことによってデータの密度を上げて容量を上げる方式)によって延命を図ったように、内燃機関でもこれまで不可能とされた異質な技術が実用化されはじめている。日産の可変圧縮比エンジン『VC-T』やマツダの『SKYACTIV-X』がそれだ。 日産が開発した可変圧縮比エンジン『VC-T』は、燃費の向上とトルクの維持を両立させる技術だ。燃費の向上には燃料であるガソリンと空気の混合気の圧縮比を高める必要がある。しかし圧縮比を高めすぎると点火プラグで点火する前に混合気が部分的に爆発するノッキングが起こり、エンジンに異常な振動が発生し、最悪エンジンを壊すことにもなりかねない。このノッキングは発進や加速時などのエンジンの負荷が高いときに起こりやすく、一定の速度で走っているときには起こりにくいことが分かっている。であれば、発進や加速時だけ圧縮比を低くし、一定の速度のときに圧縮比を高めることができれば、ノッキングを防ぎ燃費を向上できる。これが可変圧縮エンジンの狙いで『VC-T』では動的にストロークの長さを変更することで圧縮比の変更を行っている。 動的にストロークの長さを変更と言うのは容易いが、ガソリンが爆発する力を全て受け止めるところに新たな部品を追加し、その角度をアクチュエータで電子制御することによってストロークの長さ変え圧縮比を変更する機構を製品化するまでに、日産は30年近い月日をかけている。このエンジンの研究は1989年に始まり、2018年の春に発売されたインフィニティのSUV『QX50』に初めて搭載された。 マツダの『SKYACTIV-X』も燃費の向上とトルクの維持の両立という目的は変わらないがアプローチは『VC-T』とかなり異なり、燃費の向上を混合気の自動着火に求めている。『VC-T』の説明では自動着火はノッキングの原因であり、ガソリンエンジンでは避けなけれならない現象であると述べたが、『SKYACTIV-X』では逆にその自動着火を利用し燃費向上を狙う。 通常の点火プラグでの混合気への点火は着火にムラができ、燃料の燃え残りが起こることによって燃費が低下する。着火にムラができる原因は紙の端についた火が全体に燃え広がるのに時間がかかるのと同じで、混合気が爆発しピストンを押すまでには全体に火が届かず、どうしても燃え残りができてしまうからだ。一方、自動着火は混合気の圧力と温度で決まる。燃焼室内の圧縮された混合気の圧力と温度はほとんど同じであるため、自動着火の条件は燃焼室内で同時に起こる。そのため燃え残りが非常に少なく燃料を効率よくエネルギーに変換することができるのだ。また、自動着火では点火プラグで火をつけるのとは異なり、混合気のガソリンの比率を下げることができる。これによりピストンを押し出すのにかかるガソリンの量も減らすことができ、さらに燃費を向上することができる。 燃費にとっては良いことずくめのように思える自動着火であるが、ガソリンでそれを制御し確実なタイミングで起こすのは実はとても難しい。その理由は自動着火が起こる温度と圧力の範囲が限られているからだ。『SKYACTIV-X』ではこの問題を解決するために、自動着火が起こらない温度のときはガソリンを噴射しプラグで着火するということを行う。燃料の消費を抑えたい巡航走行時に自動着火が起こるように燃料室の大きさを合わせることにより、発進時や加速時は点火プラグを使うとしても、安定した巡航走行の燃費を格段に向上することができる。 『SKYACTIV-X』を搭載した『Mazda 3』は今年の5月頃に世界で販売される予定である。『SKYACTIV-X』がモーターを付けたハイブリッドであることや、世界戦略車である『Mazda 3』の一部のグレードにしか搭載されないことで、その性能には懐疑的なところもあるが、世界を席巻したスモールセダンである『BMW 3シリーズ』になぞられたその名前の最高グレードに『SKYACTIV-X』を設定したことにマツダの本気度をうかがうことができる。 内燃機関にはこういった努力にもよらず最終的には失われてしまうという哀しみがある。しかし内燃機関が失われる技術だから哀しみがあるのかというと、それだけではないようにも思う。内燃機関には、燃料の爆発を閉じ込め運動エネルギーに変換するというその行為自体に、ある種の哀しみがあるように思えるのだ。 その内燃機関の本質的な哀しみを端的に表しているのが Blood Orangeの『Negro Swan』の一連のMVであり、特にそのジャケットにも使われた『Jewelry』のMVだ。 海外でのチューニングした日本車ブームの起源は90年代の終わりに西海岸で東洋系マフィアがはじめたものだと言われている。そこに日本のアフターパーツメーカーや自動車雑誌が便乗して日本のチューニング文化を持ち込み、映画『ワイルドスピード』の世界的なヒットもあり世界中に広まることになる。 現在の80年代、90年代の日本のスポーツカーの中古価格の高騰は、こうした文化的なものと、販売から25年以上経つ車は規制が緩和され新車では禁止されている右ハンドルの車も走ることができるというアメリカの「25年ルール」によるものが大きい。 『Jewelry』のMVに登場するスプリンタートレノは、こうしたチューニング文化を作りあげた源流とも言えるモデルであり、なかなか良い選択だと言える。特にこの個体は外見はペイントをやり直しているくらいでノーマルに近く、日本で当時流行した「つり革」や車検証を模したステッカーなどに日本のこの時代の車に対する強いこだわりが感じられる。 しかしAE86、しかも白と黒のいわゆるパンダトレノを使うのは、その流行をまじまじと見てきた我々には、あまりにも豆腐屋すぎる。いくらチューニング文化の源流であるとしてもここはS13型シルビアや FD3S型 RX-7あたりを選んで欲しかったところである。 内燃機関の哀しみをジャケットに使った最近のものとしてはMall BoyzのEP『MALL TAPE』がある。この『Higher』のMVにも登場するフォルクスワーゲンのポロはWRCでも活躍するヨーロッパで人気のホットハッチだ。 この個体はサイドに MALLと大きく書かれてはいるが、WRC的なレース仕様という訳ではなくほとんどノーマルに見える。それでも後部座席の窓には2013年から18年のWRCのチャンピオンのセバスチャン・オジェとジュリアン・イングラシアのステッカーがある。またユーロのようなナンバープレートの上に群馬ナンバーが重ねられている。 これを選ぶのが彼らのモール感であり、我々が郊外で実際に見るワンボックスやミニバンに支配された世界とは少し違う架空のモールなのだろう。それは彼らのジャージやサングラスがドンキホーテの前で見かけるリアリティーから少し離れたところにあるのと同じように、どこでもありそうでいて、どこでもない。特定のフッドを持たないという彼らの気分を良く表していると思う。 Text by Naohiro Nishikawa
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