2018/08/10
不定期にお届けするKentaro Mori(世界的なバンド)のコラム。
■7/30
Mr Twin Sisterの新曲。
数年前NYで観たライブは最高だった。ライブする喜びにふれて、感動して泣いてしまった。
ボーカルの子は日本大好きみたいだし、メンバーもめちゃいい人たちだったし、誰か呼びませんか?
今日は、柴田元幸・高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』(河出文庫)を読む。
冒頭からグングン面白い。
高橋:本当のことを言うのが文学だというのは、実はまったくの嘘なんですね。でも、よく考えてみたら、これは文学に限ったことではなくて、この世界の構造は基本的に「本当のことは言わない」ということなのかもしれない。つまり「コード」というのは、そういうことですよね。
小説の話をしていて、それが自然に「世界」の話になっていくのが面白い。音楽でも、映画でも、なんでもそうだけど、そのジャンルの話だけしてしまうのはつまらない。
高橋:「小説」というものの最大の特徴は、「人間」がそこに登場することで、そして「小説」以上に「人間」というものを説明できる手段を我々は持っていないからです。
これは、たしか保坂和志も「人間の現われない小説は存在しない。それはなぜなのか、ということをいつも考えながら小説を書いている」(大意)というようなことを書いていた。これを初めて読んだときの「うわっ、ほんとだ、これはすごい、なんかよくわからんけどすごい」と、さも自分が発見したかのように驚いたことを覚えている。それ以来、何を読んでも心のどこかにはこのことが常にある。考えてもわからんのですが・・・
■7/31
Okkyung Leeのインタビュー
や、Latinaの角銅真実のインタビューを読んでいたら、「Mark Fell」という文字を久しぶりに見たので聴きたくなったところ、これまた新作がいつの間にか出ていた。
これにはビックリした。Kink Gong化したMark FellもやっぱりMark Fellで、この人の底知れなさ。
引き続き、柴田・高橋『小説の読み方、書き方、訳し方』。
この対談は、「小説というものを読む=書く=訳す、というものはイコールで結ばれるのではないか、といっても全く同じというわけではなく、それは「固体」「液体」「気体」のように変化していくものなのではないか」という所から始まる。
「小説の訳し方」という章でも、「翻訳」の話にはならず、「アメリカ」や「日本」、「世界」の話になる。そこがいい。
高橋:「アメリカ」という言葉を翻訳しても「日本」にはならない。変ないい方ですけど。
つまり「アメリカ」を日本語にしたらどうなるかって考えたんです。翻訳ってそういうことですよね。固有名詞を翻訳するってそもそも無理じゃないですか。だから、誰も「アメリカ」を翻訳しようとは思わないんです。僕は一回やりたいなと思っているんですけど、やり方が見つからない。
保坂和志『ハレルヤ』(新潮社)と木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)を購入。
保坂和志は発売日に買ったはいいが、楽しみすぎてすぐに開けない。勇気が足りない。
■8/1
WBSBFK土屋くんが嫉妬しているに違いないPV。
保坂展人『相模原事件とヘイトクライム』(岩波ブックレット)を読む。
社会に蔓延していて、しかもそれを公言してはばからなくなってしまった「ヘイト」の渦。これはどこから生まれるのだろうか。それは醜い「ルサンチマン」から来るのではないか。ぼくの中にもルサンチマンは、ある。それをどう乗り越えればいいか。
読み始めた、立岩真也『増補新版 人間の条件 そんなものない』(新曜社)が面白い。学生時代に旧版を読んだ記憶があって、その時はこのまどろっこしい文体が読めなかったが、今読むとぼくの興味ある領域とぴったりだった。
「不自由」をどう考えるかということ。したいことができないのはたしかに困ったことです。でも、自分ができないことを他人にやってもらったらちょうど同じになる場合もある。
「できることはよいことか」―そんなこと考えたことさえなかった。一度この「常識」を疑うと、いかに自分が「できないこと/人」を排してきたかを思い知らされる。
■8/2
来たる新作も楽しみ。
引き続き『人間の条件 そんなものない』を。
「できる」「できない」ということの意味をもっと考えたほうがいいだろうと思っています。
[…]
みんなができるようになる必要はない。
「私の作ったものが私のもの」「私がすることができることが私」ということが「人間の『価値』」とする社会に生きているけど、「そんなものない」。
今読めてよかった。
■8/3
rei harakamiって、ちょっとナイーブすぎて好きじゃなかったんだけど、今、すごくイイと思える。ようになった。
保坂和志『ハレルヤ』を読む。がまんしきれなかった。
最高傑作。感涙。
時間は、過去→現在→未来、という単線的なものではなく、その度ごとに新しく生まれるものであることを証明してしまった。
過去の出来事は現在の私の心、というより態度によってそのつど意味、というのでなく様相、発色が変わる。
[…]
時間のイメージが、流れないで、過去と現在が同時にあると考えている人たちがいるとしたら、その人たちは死を生の終わりであるとは考えないだろう、生には終わりはあるかもしれないがそれを死とは呼ばない、というような。
(「ハレルヤ」)
そのことは、19年前の小説『生きる歓び』を再録することでも現れている。
読む度ごとに、新しい今を生きている。すべて響きあっている。
「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。
[…]
「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。
(「生きる歓び」)
問答無用に元気が出る。
世界があれば生きていた命は死んでも生きつづける。
世界があるからこそ命は無になることはない。
■8/4
齋藤陽道『異なり記念日』を読む。
ぼくのいとこは聴者だが、その両親はろう者で、その家族を思い浮かべながら読んでいた。
一言に「ろう者」と言っても、生まれつきの人もいれば、途中の人もいるし、手話の中にも「日本手話」と「日本語対応手話」と違いがあることもしらなかった。ましてや、ろう者のもとに生まれた聴者がどんなことを思っているかなど・・・何にも知らなかった。
「おとさん。おとーさん」
「なになになに、どうしたの?」
「あったー!」
[…]
「音楽、あったー!」
「あ、音楽。ああ音楽か!音楽が、あったんだね」
「異なる」ことを理解し合うことから・・・。
リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫 上』を読み始める。
冒頭、
三分の一世紀のあいだ、私はデトロイトなしで十分やってきた。[…]ところが二年前のある日、都市は私を急襲し、逃げるすきも与えず私を拿捕したのである。
すぐにゼーバルトを連想する。主語は「私」と一人称ながら「私」の存在感は希薄で、建築のディテールが語られる。そして「写真小説」でもある。
そういえば『アウステルリッツ』も『舞踏会へ…』も、駅に到着するところから始まっていたはずだ。
我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。ぶっ倒れるまで踊らされるのだ。
■8/5
今日は久しぶりに映画を。
めちゃくちゃ泣いてしまった・・・
終了して後ろを振り返ったら、シネコンに満員の光景を見て、また泣けてしまった。
誰にでも薦められる映画。
『舞踏会へ向かう三人の農夫』のつづき。
アウグスト・ザンダーの一枚の写真から小説は始まる。
ロラン・バルトは、絵画と違い、写真は「事物がかつてそこにあったということを決して否定できない」と言っている。
この写真の人物は、確実に在った。では、その写真から始まるこの小説の物語は?
芸術はいまや芸術自身を主題かつ内容としている。絵画についてのポストモダニズム、作曲をめぐる十二音技法、フィクションに関する構成主義小説。さらに言うなら、世紀はそれ自身についての世紀、歴史についての歴史となった。それは静止した、折衷主義の、あまねく自己反映的で、均一に多様な閉じた円環であり、新星出現につづいて宇宙空間に生じる均質的な残骸である。この世紀にあっては、何かが起きればかならず、何か同時に別の出来事が生じてそれと結びつき、共謀してひとつの全体を形成せずにはいない。
安積純子、岡原正幸、尾中文哉、立岩真也『生の技法[第3版]家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(生活書院)と『舞踏会へ向かう三人の農夫 下』を購入。
■8/6
今日は何を読もうか、しばらく前から考えていた。
今年は、現代詩文庫『たかとう匡子詩集』(思潮社)を。
いもうとは冬のひかりの内側をなだれ
ひろがっていく
溶けていく
炎のなかを跳びはねて死んだいもうとの
その日づけ
その刻限
机上の染み
(「いもうと考」)
TEXT:Kentaro Mori(世界的なバンド)
category:COLUMN
2018/08/27
不定期にお届けするKentaro Mori(世界的なバンド)のコラム。 ■8/7 『カメラを止めるな!』の監督の短編。 映画の中に現実が組み込まれるメタ映画だが、まったく破綻するスキがない脚本構造の強さ。あと、花嫁、好き。 今日からは『舞踏会へ・・・』下巻。 「すべての言説はその時代の産物である。この言説にしても」。 ■8/9 こんなの出てたなんて知らなかった・・・!!!やっぱりこのドラムすごすぎる。 1年半ぶりでスタジオ入りしたマイルスは非常にモチベーションが高く、両手に掴んでいたのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンとカールハインツ・シュトックハウゼンでした。 (菊池成孔・大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究』) ようやく『舞踏会へ・・・』読了。 芸術論、写真論、メディア論、小説論、歴史論、すべてが絡まりあって進行していく小説は、ピンチョン的な複雑さがありながら不思議と読み進められた。 我々はフィルム上の出来事に反応しているのではなく、自分の心のなかにおいて同時進行で編集している無数のリールに反応しているのだ。 ■8/11 河野裕子・永田和宏『たとへば君』(文春文庫)を読む。 歌を詠みあうことでよってしか成しえない家族のコミュニケーション、愛、があった。それはいびつなものだったかもしれないが、歌の中が真実だったようにも思える。 一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため(河野) 一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ(永田) ■8/12 カルヴィーノ『むずかしい愛』(岩波文庫)を読む。 十二の短編集。痴漢小説「ある兵士の冒険」とオタク小説「ある写真家の冒険」が面白かった。 彼女を大きなソファーに座らせると、かれは写真機についている黒い布の下にもぐりこんだ。それはあの後ろの壁面がガラスになっている箱のひとつで、ガラスのところに、乾板に映るのとほとんど同じ像が、時空間内のあらゆる状況から切り離された幽霊のようにかすかに乳色に滲んで映るものだった。アントニーノはビーチェをはじめて見るような感じがした。やや重たげにまぶたを閉じるときや、首を前に突き出すときに彼女がみせる従順さの奥には秘められた何かがあるような気がして、彼女の微笑みも微笑むという行為そのものの背後に隠れているように思えるのだった。 鹿島和夫編『一年一組せんせいあのね』(理論社)が、驚愕の一冊。 子どもたちの感性も素晴らしいが、それを汲み取ることができる先生があってこそ。 子どもたちに詩を書かせることで、子どもたちの潜在的な感情を知る、一種の「箱庭療法」みたいなものともいえるのか? きがかぜにのっていました はっぱがいっぱいありました だから おんがくになるのです (「き」) ねるときは もっとおきときたいのに おきるときは もっとねたい (「へんなこと」) ■~8/19 こないだのMarker Starlingとのツアーも最高だったNicholas Krgovichの新作が、もう!この曲、ライブでやってたな。 旅行中はSuchmosばかり聴いていた。生まれ変わったらSuchmosになりたい。 木庭顕『誰のために法は生まれた』を途中まで。 溝口健二の「近松物語」やギリシャ悲劇を読みながら、法とはなにかを考える本のようで、最初は、なんで演劇なの???と思っていたけど、法って演劇的な空間なんだ、ってことのようです。2千年以上前のギリシャからすでにこのシステムができていて、現在もそれに基づいていることに驚く。面白くなってきたけど、ちょっと疲れたので、今日はこのへんで。 法というのは、以上のような普通の裁判をするのでなく、劇中劇をさしはさんでまずは権力をブロックする、そして劇中劇の外の舞台から、舞台の外、劇場の外にそのまま出て、[・・・]じっくり議論して事柄を吟味し、最終的にどちらの勝ちかを決める、そういうシステムなのです。 旅先で買った、牧野伊三夫『仕事場訪問』(港の人)が素晴らしい。 葛西薫、立花文穂、福田尚代など9名の芸術家を訪ねる。 平易で誠実な文章に引き込まれる。 筆者の芸術への誠実な向き合い方が、文体からうかがえる。 この日、話をうかがいながら、偉そうに、安易に「芸術とは」などと定義するよりも、僕は、まずとことん描いて、そのことを楽しむべきだろうと思ったのだ。 森美術館の『建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの』 が、腰を抜かすほどの素晴らしさだった。濃厚さだった。 「西洋で生まれたモダニズムは、日本にもともと内蔵されていた」、という指摘や、青木淳「ルイ・ヴィトン」の「包装紙としての建築」という和、「内部」と「外部」を入れ子状にする藤本壮介の建築が「和室」の構造からきていることや、「内部=外部」関係をゆるやかに接続する妹島和世=SANAAの「京都の集合住宅」は斬新で、生活の広がりを感じられたし、一方でそれらが注目を集めるほど、坂茂の「紙の建築」は特異であるとも感じた。 これだけ濃密で、知的好奇心を刺激された展示は今まで見たことがなかったと思う。まだの方はぜひ行ってみてください。 大好きな近藤聡乃のアニメーションも面白かった。この人の描く人物の、太ももの太さ。整然とした手書き文字。 TEXT:Kentaro Mori(世界的なバンド
2018/07/24
不定期にお届けするKentaro Mori(世界的なバンド)のコラム。第一回。 AVYSS編集長から「本とか映画のこと書け」ということだったので、書きます。お付き合いください。 ■7/17 突然だが、恋をしている。 なので、まったく本が読めない。 こないだは1ページ読むのに1時間くらいかかってしまったし、文字がまったく頭に入ってこないし、同じところを何度も読んでいて一向に進まないんです。 では、ごきげんよう。 と、ここで終わりたいところだが、これではさすがに怒られると思うので、頑張って本を開く。 読めない時は、詩集にかぎる。 ということで、今日は『原民喜全詩集』(岩波文庫)を開いた。 冒頭から困惑している。 たとえば 夕ぐれになるまへである、しづかな歌声が廊下の方でする。看護婦が無心に歌ってゐるのだ。夕ぐれになるまへであるから、その歌ごゑは心にこびりつく。 (「夕ぐれになるまへ」) とか おまへは雨戸を少しあけておいてくれというた。おまへは空が見たかつたのだ。うごけないからだゆゑ朝の訪れが待ちどほしかつたのだ。 (「そら」) これは「詩」なのか。 もちろん詩なんだけど、小説のはじまりであってもおかしくない。原民喜の小説は『夏の花』しか読んでいないし、それもよくわからないままに流れて読了してしまった。 しかし、『夏の花』もこの詩も、淡々としたトーンの中に怒りがある、ような気がしている。でももしかしたらそれは、「民喜が原爆被災者である」という知識を持ってしまっていることからぼくが勝手に作り出した物語かもしれない。虚心に読んでいこう。 たった70年ほど前の昭和の作家がこれほどに遠い存在になってしまった。ぼくはこの人のことをまだ何も知らない。 ■7/18 phewとレインコーツのコラボアルバムの先行曲を視聴。 先日のruralでのphewは、本当にすごかった。 3日間のベストアクトだったはずだし、phewはとても謙虚な人なのだと思った。その振る舞いを思い出すだけで、感動して震えてしまう。 「音楽は恐ろしい現実の避難所にはなりませんが、私はこの曲を作っているうちに、この世に生き残るための小さな力を与えると思っていました」 今日も今日とて、本が読めない。 ということで、『原民喜全詩集』の続きを。 ながあめのあけくれに、わたしはまだたしかあの家のなかで、おまへのことを考えてくらしてゐるらしい。おまへもわたしもうつうつと仄暗い家のなかにとぢこめられたまま。 (「ながあめ」) 沢山の姿の中からキリキリと浮び上って来る、あの幼な姿の立派さ。私はもう選択を誤らないであらう。嘗ておまへがそのやうに生きてゐたといふことだけで、私は既に報いられてゐるのだつた。 (「頌」) キリスト教的な、諦念?のようなものもなんとなく感じる。 まだまだ困惑している。 頑ななまでに行替えはないし、短詩でありながら「パンチライン」的なものもなく、「ただそこにある」がある。俳句の趣も感じる。 虚心に読み続けていこう。 ■7/19 食品まつりの新作の先行曲を視聴。 またまたruralの話になるが、食品さんも素晴らしかった。いつもは「仲のいい友達との楽しい闇鍋パーティー」という感じだけど、あの日はしっかりrural仕様のディープテクノで痺れた。何やってもかっこいい。 今日も読めないままに『原民喜全詩集』を。 コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ 「助ケテ下サイ」 ト カ細い 静カナ言葉 コレガ コレガ人間ナノデス 人間ノ顔ナノデス (「コレガ人間ナノデス」) おお、突然来た。背筋を伸ばす。 久しぶりにWill Longを聴く。 イイ。 FRUEの第一弾が発表。 すでにすごいメンツ。去年は行けなかったから、行きたい!!! ■7/22 今日は図書館→古本市→喫茶店→本屋。 最近は図書館で絵本を読む。最初は恥ずかしさがあったが、今ではなんのてらいもなく、周りで子どもが騒いでいる中、堂々と絵本に読みふけることができるようになった。なんなら酒井駒子とか読んで泣いたりもする。 古本市では、現代詩文庫の吉岡実と黒田喜夫をゲット。 2週間ぶりの本屋では、リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫 上』(河出文庫)と梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(岩波新書)をゲット。 気づいたら民喜。民喜に導かれている。 『原民喜全詩集』やっと読み終わった。 もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・・・ なんだそれは。ガツーン、というショック。 一九四四年に妻を亡くし、一九五一年に自殺したそうです。 川の水は流れてゐる なんといふこともない 来てみれば やがて ひそかに帰りたくなる (「川」) 「なんといふこともない」、この言葉がぴったりな詩人だった。 民喜ばっかり読んでると死にたくなってくるので、『ワインズバーグ、オハイオ』(新潮文庫)を読み始める。 作家がいた。白い口髭の老人である。ベッドに横たわるのにいつも苦労していた。住んでいる家の窓が高いところにあり、彼は朝目を覚ますときに外の木々が見たいと思った。そこで大工を呼び、窓の高さまでベッドを高くしてもらうことにした。 これに関してはひと悶着あった。南北戦争のときに兵士だった大工は作家の部屋に入って来ると、座り込んで話し始めた。台座を作り、その上にベッドを置いて、高くしたらどうかといった話である。作家は葉巻をそこらに置いてあり、大工はそれを吸った。 冒頭からこんな感じ。やさしい。サローヤンを読むときにも感じる、他人へのやさしさを 感じる。 text by Kentaro Mori(世界的なバンド)
2018/07/30
不定期にお届けするKentaro Mori(世界的なバンド)のコラム。 ■7/23 大好きなKhotinの新作がいつの間にか出ていた。 ほとんどビートがなくなって、アンビエント化しているのも心地よい。 1080pフェスなんかあったら絶対行くんですけど、どうですかね? 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房)を読む。 おもしろかった歌を数首。 私からもっとも遠い駅として初恋の日のあなたはわらう うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目 本棚の奥に小さな目があってむこうの窓に虹が出ている ■7/24 Actressの新作もいつの間にか出ていた。London Contemporary Orchestraとのコラボ。 Jeff Mills以降のオーケストラ×テクノの流れ。このアルバムも文句なく素晴らしいです。 穂村弘『水中翼船炎上中』(講談社)を読む。 おもしろかった歌を数首。 童貞と処女しかいない教室で磔にされてゆくアマガエル 夕闇の部屋に電気を点すとき痛みのようなさみしさがある 今日ひとを殺したひとの気持ちなど想像しつつあたまを洗う ■7/25 H.Takahashiの待望の新作から先行曲を。 「時にしとしと降る小雨のような、それでいて清涼感溢れる音の粒は100m走を全力で走った後に浴びるシャワーのように体内に心地よく沈み込む。地の果てから届くような、ものうげなメロディは、水中の中で漂うような感触を与え、シンプルな音色構成と配置の妙は日本庭園の哲学や千利休的なミニマリズムを感じさせる」 そして!なによりも!Analogfishの新作!『Still Life』!!!(タイトルから最高。モランディからインスピレーションを受けたそう) どんどん音少なく、歌詞もスウィートで、厳しい。 Prefabっぽさも感じるようになってきた。最強です。 壁にかかっている 静物画のように この気持ちを 閉じ込められたら (「静物 / Still Life」) 今日は、宮地尚子『震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット)を。 「環状島」というモデル、<重力>、<水位>、<風>といった比喩も秀逸。思い付きではなく、長い長い時間をかけた臨床の末にたどり着いたモデル理論であることが理解できる。 たった60ページのブックレットだが、こうした本が2011年の8月に出ていることは希望。 トラウマの中心には誰も近づくことができません。トラウマは、ただその周りをなぞることしかできないのです。トラウマと向き合うということは、この中空構造を理解すること、<内海>に語れない人や語られないままのことがたくさんあると認識しながら、環状島の上に立つということなのです。 ■7/26 Alex Zhang Hungtaiって人のアルバムが衝撃的に良かった。 これ誰だよ?と思って調べたらDirty Beachesの人やった。おそろしいバンドだ・・・ Laurel Haloの新作も今までで一番良かった。 梯久美子『原民喜』を。 民喜の評伝でありながら、その自殺の場面から辿られる。 原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そうした考えに至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには持って生まれた敏感すぎる魂、幼い頃の家族の死、厄災の予感におののいた若い日々、そして妻との出会いと死別が深くかかわっている。 ■7/27 Mitskiの新作から先行曲。 曲もPVも、いつも素晴らしい。 すべてアイデンティティに深く関わっていて、どれも「切実さ」がある。 ああ神様、私はとても寂しい だから窓を開けるの 人の声を聞くために 人の声を聞くために [・・・] 私はあなたの同情を望んでいない ただ近くに誰かがいてほしいだけ ええ、私は臆病者 ただ大丈夫になりたいだけ 誰も私を救えないことはわかってる ただキスをする人が必要なだけ 正しく正直なキスをお与えください そしたらもう大丈夫 [・・・] まだ誰も私を求めてない まだ誰も私を求めてないの Mitskiの歌う「You」とは、すべて「Music」のことなんだそう。しびれる。 引き続き『原民喜』。 父も姉も亡くし、ようやく出会った妻とも死別し、絶望の中にいるはずなのに、やさしさはいや増していく。ひたすらにやさしい。慈愛。 このやうにして、昔の月日は水のやうに流れて行つた。……だが、近頃でもひとり家にゐると、私はどこか見えない片隅に懐しいもののけはひを感じる。自分の使ふペンの音とか、紙をめくる音のなかに、いつのまにやら、ふと若い日の妻の動作の片割れが潜んでゐる。 評伝にありがちな、思い入れが強すぎるあまり美化してしまったり、文学的にしすぎることもない、著者の民喜への深い愛も感じる。淡々と辿る姿勢はまさに「民喜」そのものではないか。 惨劇の記憶に耐えて生きるためには、貞恵との幸福な日々の思い出と、彼女がいまも側にいるという気持ちが必要だった。彼女が見ていてくれるという思いがあったからこそ、原は仕事をすることができた。結婚した当初に貞恵が言った「お書きなさい、それはそれはきつといいものが書けます」という声は、最後の作品を書き終えるそのときまで、原の耳に聴こえていたに違いない。 ■7/28 砂原ファンなので↓ ACOを思う。「Signal」という曲が好き。 きっとすぐにあなただってことは わかるような気がするの 理由もなくただ [・・・] 神様いないとしても 生きてる意味などなくても 果てなく広い世界で あなたへシグナル送るよ (「Signal」) 今日は、齋藤陽道『異なり記念日』(医学書院)と『大手拓次詩集』(岩波文庫)を購入。 途中まで読んでしばらくほっぽり出してたマーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(新潮文庫)をひっぱり出す。 ガウスは、素数を眺める人々の心理に大きな変化をもたらした。それまでの数学者たちは、いわば素数の奏でる音のひとつひとつに耳を傾けているだけで、音楽全体の構成を聞き取ることはできなかった。ところがガウスは、どんどん数を数え上げていったときに、そこまでの間に素数がいくつあるかという問いに集中することで、主旋律を聞き取る新たな方法を見つけたのだ。 「数学」という言葉から想像することのできない文章。これに遭遇することで、イメージが広がる。固定観念を取り払ってくれる。 とはいえ、いつ読み終えるのか・・・ ■7/29 今日は能を観に行く。 以前観たときよりは言葉が入ってきたような気がする。が、それでも途中で迷子になってしまったし、音楽として面白いという楽しみ方しかできていないので、勉強が足りない。 能は、観る側のリテラシーを最も必要とする芸術だと思う。試されている。 今日はホンマタカシ『ホンマタカシの換骨奪胎』(新潮社)を読む。 目次からすごい。 ピンホールカメラと山中信夫 マイブリッジとマレーと連続写真 リュミエールと映像の自生性 運動 マレーからデュシャン、リヒターへ 日本のピクトリアリズム エド・ルシェとアーティストブック 赤瀬川原平と路上との出会い 映画・ビデオ・写真 ドキュメンタリーを考える 見えないものを見る 定点撮影と大辻清司 ルイジ・ギッリと窓 マグリットと視覚 介入する芸術 (ささやかに)介入する芸術 時空を超えるガラス湿板 仮説 毎回初めて世界に出会う アピチャッポンとのSF的邂逅 写真の確かさと、不確かさ 報道写真について これだけで興奮してくる。 現在、日本で一番ホックニー的な分析・研究・実践を行っているのがホンマタカシだと思う。 僕は芸術の形式の進歩に興味があります。個々の作家の人生ではなく歴史上どういう流れの中にその作家と表現は立脚していて、その流れはドコからどこに流れていくのか?その事に興味があるのです。 TEXT:Kentaro Mori(世界的なバンド)
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