聴取体験の異化─身体的聴取のすゝめ|〈Feat.MATAWA vol.12〉特別論考

10/18 FORESTLIMIT コンサートホール/クラブの先へ

 

 

tomo takashimaは、現代音楽(クラシック)やフリージャズ、ワールド/ミュージックなどのヴァイナルを多層的に繋ぎ、架空の奇妙なグルーヴを生成する極北系DJ。音楽にまつわる思考実験のフィールド・ワークとして位置付けられる、実験派パーティー〈feat. MATAWA〉の主催者としても活動している。

 

2025年10月18日(土)にはクラシック×ポピュラー実験音楽をコンセプトとした〈Feat.MATAWA vol.12〉を幡ヶ谷FORESTLIMITにて開催。横浜みなとみらいホールにて先日ハイカルチャーとサブカルチャーを横断するコンサート「音MAD ~デジタル・マキシマリズムと音楽~」を実施したYuri Umemotoや、SSWのrilium、MON/KU + 町田匡などが出演。

 

本稿では開催の迫る同パーティーを補完する手引きとして、tomo takashimaが抱く「コンサートホールとクラブ」という音楽体験の両極を巡り、乗り越えていくための考察を体系的に進めていく。

 

Text : tomo takashima

Edit : NordOst / 松島広人

 


 

序文:袋小路からの脱出

 

あえていうならば、21世紀の音楽体験はふたつのによって引き裂かれている。

 

一方は、その形式主義と厳格な作法によって身体性を抑圧し、「教養」という高い参入障壁を築いてしまったクラシック音楽。もう一方は、身体を解放し共同体的熱狂を生み出すも、ダンスフロア的機能性への特化とハイコンテクストな排他性によって、時に内省的・構造的な美の探求を手放してしまうクラブ・ミュージック。両者はそれぞれの方法で音楽的な深度を深めつつも、自らが作り出した制度と作法の中に閉塞している。

 

もちろんすべてにはグラデーションがあり、それぞれの分野を押し広げる才能たちについて尊敬の念を忘れたことはない。しかしながらその上で、今回はふたつの極へと、単に中庸であることを超えた調停を試みたい。両者の制度的・文化的な呪縛を解き放ち、音楽のもつ根源的な力:音によって身体と精神が変容させられる体験を取り戻すためのアイデア、それを便宜的に「身体的聴取」と呼称し提唱してみたい。

 

1,身体性について:能動的なCrowd / 受動的なAudienceという神話の解体

 

クラブとコンサートホールにおける身体性を表現する語は、それぞれCrowd(群衆)とAudience(聴衆)というふたつの異なる主体モデルによって規定されてきた。前者はダンスフロアで熱狂する動的・能動的な身体。後者は指定された座席で作品を受容する静的・受動的な身体のイメージだ。

 

そう定義するのはいかにもシンプルであるが、しかし実情はもっと複雑だろう。第一にクラブを構成するCrowd(群衆)という言葉の語源は、「押し込む」「押す」「詰め込む」といった意味を持つゲルマン祖語の「*krudana-」に由来するそうで、ニュアンスとしては「単に多くの人が密集している状態そのもの」を指す。ディープな野外レイヴで見られるような、その場にいる全員が合目的的に体を動かし、ストイックにトランス状態を志向するような状況はいかにも動的である。

 

一方で現実のクラブにおけるダンスフロアを思い浮かべてみると、もう少し雑多で多様な目的をもった身体が、思い思いに楽しんでいることだろう。あるいは、そこでの身体はいかにも手持無沙汰に、なんとなく音に乗っていることが多いかもしれない。こちらのほうがずっと本来の「Crowd」的だ。

 

ダンスフロアやレイヴの渦中で巻き起こるトランス体験というのは、反復運動とあくまでその「結果」としての地点への到達である。ふまえると、クラブ空間を構成する身体は一見するといかにも動的ではあるけれど、その内実としては「ただそこに在る/身を置いている状態」というのが近い。このような身体のありようを表現する概念に、能動態でも受動態でもないギリシャ語由来の「中動態」というものがあるのだが、詳細が気になる方は國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(2017)を参照されたい。

 

Audienceの誕生

 

一方、コンサートホールではどうか。

 

誤解を恐れず仮定すれば、クラシック音楽は今日、その不文律によって尊厳を保っている側面があるだろう。愛好家が鑑賞マナーに苦言を呈することも珍しくない。ある共同体にストイックな規範を敷けば、そこには自然と階級意識が生じる。

 

テオドール・アドルノはこのような聴衆のラベリングを『音楽社会学序説』(1962)で明確に概念化し、「マナー」を熟知し音楽の構造的聴取が可能である聴衆を「エキスパート」として最高位に置き、音響の戯れに快を見出す「娯楽型聴取者」を痛烈に批判した。このあまりにスノッブな意識は現代の愛好家にもある程度通底しており、それに端を発する独特の敷居の高さが、他ジャンルに対するクラシック音楽の権威性を演出しているとさえいってよいだろう。

 

 

では、コンサートホールでの身体性は常に抑圧されてきたのだろうか。渡辺裕『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』(1989)によると、上記のようなストイックな身体性が制度化しコンサートホールに敷かれたのは、意外にも19世紀後半以降の、クラシック音楽でいうところの後期ロマン派の頃だという。演奏の場が宮廷の舞踏会や町のサロンから劇場/コンサートホールへ置換されていく過程で、聴衆の身体性や主体性は規制され、その聴取(芸術体験)のクオリティとトレードオフにされてきた歴史があるといえる。

 

ところが20世紀に入り、音楽聴取が根底から覆るパラダイムシフトが起こる──録音技術の発達によって。

 

録音技術はコンサートホールのような「公的」な聴取空間とは別に、家庭での「私的」な聴取空間を打ち立てた。あまつさえWALKMANやiPod、そしてスマートフォンは、その「私的」聴取空間の携帯を可能にした。それはすなわち、通勤・通学中、家事、運動、etc……音楽聴取における身体性の解放を意味する。「動的」なAudience(聴衆)の誕生である。

 

では、テクノロジーによって聴衆の質は劣化したのだろうか? 否、と言いたい。現代において、優れた聴取体験は身体性の犠牲の上にのみ成り立つものではないはずだから。

 

そのヒントとして筆者が注目しているのが、クラブという空間なのである。本稿では20年代のクラブシーン、つまりコロナと都市開発によって東京の生態系は一変し、エリアや年齢による分断がよりシビアになった(細分化したシーンが可視化された、ともいえる)今日において、新しい音楽聴取の在り方を模索し、議論の刷新のきっかけづくりを試みる。

 

2,アンプリファイドによる異化

 

優れたクラブ空間を支える大きな要素に、間違いなくサウンドシステムの存在が挙げられる。初めてクラブを訪れたときに感じた音、というよりは「パルス」に近い受容を余儀なくされるあの低音衝撃波は、単に音楽再生装置というより空間全体を振動させる「触覚メディア」のようだ。

 

そうした触覚メディアにアンプリファイドされたクラシックをはじめとした器楽は、往々にして、単純にコンサートホールで聴く演奏より大きな音量で出力されることがある。現実より大きな音というのは、それだけで奇妙な「異化」になりうる。

 

演劇人・ブレヒトが提唱した「異化」とは、慣れ親しんだものを「あたかも初めて触れるもののように」提示することで意図的に違和感を演出する操作であるが、いわゆるサイケデリック的な感覚はそれに近いとされている。認知機能の低下によって記号と意味と迷子になることで、文字通り路傍の石にも目を向け感動するなど、普段気にもかけない事象にいちいち心を動かされるというわけだ。逆説的に、優れた芸術はその内容及び提示の仕方、つまり演出によってサイケデリクスを必要とせず鑑賞者に一定の衝撃や洞察、気付きをもたらすことができると考える。

 

つまり「アンプリファイドされた器楽」というのは、コンサートホールからクラブに舞台を移したことで身体性を解放し、同時に異化効果によって必ずしも記号(教養や前提知識)の階級制度からも解放された聴取を実現する。

 

3,驚き、崇高さ、美

 

衝撃や洞察、気付きを与える芸術体験。多くの人にとってこれは理想的な鑑賞のかたちだろう。それをどこかで期待し、チケットを取ったり、本を開いたり、再生ボタンを押したりしているはずだ。しかしながらそれを得てすっかり満足できるのはいったいどのくらいの割合だろう。10回に1回?20回に1回? さらにいえば、その割合は一般的に、年を取るごとに減少の一途を辿るはずである。

 

なぜか。それはその源泉が「驚き」であるからだろう。ここでいう驚きとは単純な新規性というものでもない。たとえば料理に関して、どんなに高級なレシピでも既知の味に心がさほど動かされないように、ミシュランの選定基準でも「卓越した独創性」は常に重要なテーマとされており、それはクリエイションにおいても同様かと思われる。けっして格付けがすべてではないが、古典的な味を守り続けているだけでは星は守れず、相対的に後退していることと同義なのだ。

 

ではその驚き、独創性の理論的源泉とはなにか。あえて古い美学の概念に引き寄せて述べれば、それは鑑賞者の感じる「崇高さ(Sublime)」ということになるだろう。エドマンド・バーグは『崇高と美の起源』(初版:1757)において「崇高」を「美」に対応する概念として極めて包括的に理論化している。本書で紹介される崇高の条件を美のそれと比較してみると下図のようになる。

 

 

きわめてシンプルな主張である。たとえば雄大な自然を目にしたとき、由緒ある大聖堂の中に入ったとき、鑑賞者を打ちのめす体験は「崇高」そのものであり、その細部の有機的な構造には「美」を宿していることだろう。たとえば多くの人がサントリーホールでマーラーの交響曲を聞いた際にも、おそらく同じような感慨を覚えるはずだ。それは先述のとおり聴衆の動的身体性とのトレードオフによって達成される。

 

 

しかしクラブにおいてアンプリファイドされたそれは、大きさそのものと、異化され記号性を漂白された音像の

 

「(見通しの)暗さ」

「(意味における)不明瞭さ」

「(先の見えないことによる)突然性」

 

といった要素をもってフロアに恐怖を喚起し、コンサートホールとは別のアプローチによる崇高さへと至れるポテンシャルがある。このような聴取を「身体的聴取」と呼称し、我々はそれを成し遂げるための儀式、「身体的聴取のための現代典礼」 の開催を目指す。

 

4,「身体的聴取のための現代典礼」 のために

 

2025年10月18日(土)、幡ヶ谷FORESTLIMITで以上を成し遂げるための試みを、実験派パーティー〈Feat.MATAWA vol.12〉として開催する。

 

そのためには単純に器楽をPAを通して鳴らす、ということ以上に、各アクトの必然性が当然必要となる。以下で各出演者がいかに練り上げられた表現を指向し「身体的聴取」を可能にするか、簡単にではあるが紹介させていただきたい。

 

MON/KU + 町田匡

 

 

エレクトロニカ、アンビエント、ジャズといった多様な要素を織り交ぜた音楽で、既存のジャンルに縛られない先鋭的なサウンドを追求しているMON/KUと、オーケストラプレイヤーとしてクラシックの世界に身を置きつつ、米津玄師や宇多田ヒカルといったポップス領域のトップ・アーティストの作品参加で知られるヴァイオリニスト町田匡のデュオは、このイベントの核となるコンセプト、クラシック音楽の持つ構造的な美とクラブミュージックの身体性の両立を体現する。アンプリファイドされたヴァイオリンの音色と、MON/KUの精緻な電子音楽がFORESTLIMITのサウンドシステムで交わる時、それは単なる音楽の再生ではなく、空間全体を震わせる「触覚メディア」となる。

 

Yuri Umemoto

 

 

国際的に評価される若き作曲家・Yuri Umemotoは、伝統的な楽譜の上において極めて現代的(彼からすれば同時代的)なインターネットや日本のアニメにインスパイアされた、マキシマリスティックな美学を現代音楽(クラシック)の領域で追求する。彼の作品はその特異性と同時代性から国内外の音楽祭で高く評価されており、クラシックの世界で「音MAD」的なサブカルチャー表象を体現する第一人者といってよいだろう。近年の作品には自身の出自に立脚した讃美歌にも似た響きを持つものも見られ、クラシックの作曲技法に裏打ちされた構造的な美と、優れた音響表現を融合させることで、聴衆の知性・身体性双方に働きかける。

 

Reo Anzai

 

 

プロデューサーのReo Anzaiは「ダンスフロアとベッドルームを行き来する」ポスト・ダブステップに影響を受けた特異なサウンドを提示する。彼が主宰する「Reo Anzai Electric Orchestra」という名義が示すように、理知的な電子音楽の表現と、有機的に変化を続けるサウンドスケープが融合した唯一無二の表現は、単なるダンスミュージックとは一線を画す。彼のプレイは、熱狂的なクラブ体験を超え、内省的な探求を促すだろう。今回は気鋭のメンバーを率いたカルテット形式のバンドでの出演となり(初の編成のはずだ)、新たな表現の地平に期待が高まる。

 

rilium

 

 

シンガーソングライターのriliumは、その透き通った歌声と繊細なソング・ライティングで、聴く者の心を揺さぶる。彼女の音楽は、ポップスやエレクトロニカの要素を内包しながらも、その本質は極めてパーソナルな感情の探求にあるように聴こえる。クラブ空間で彼女のライブがアンプリファイドされる時、それは親密な対話であると同時に、圧倒的な音の圧力によって身体に直接訴えかける、全く新しい音響体験となるだろう。

 

nnnnnaaaooooo(サ柄直生)

 

 

プロデューサーのnnnnnaaaooooo(サ柄直生)は、Maltine Recordsからのリリースや、新レーベル「eura」の立ち上げを通じて、日本の電子音楽シーンにおいて重要な存在感を放つ。そのサウンドは、繊細でありながらも強い情感を宿しており、聴く者を没入させる力を持つ。優れた音響空間によってプレゼンされるそれは湿度や繊細な色彩感覚をも共時的に感じさせる。今回はDJとしてtomo takashimaとともに各アクトをシームレスにまとめ上げる。

 

tomo takashima

 

 

本稿の筆者であるtomo takashimaは、クラシック~現代音楽やジャズ、ワールド/ミュージックといった多様なジャンルのヴァイナルを無作為に繋ぎ、音楽の歴史がもつ悠久な時間の流れや形式主義をリスナーの身体的な感覚へと翻訳するDJ。

 

彼/彼女らそれぞれの視点とアプローチは、今回の試みが目指す「クラシック音楽とクラブ空間の調停」及び「身体的聴取」を重層的に提示する。コンサートホールとクラブの二元論を越え、音楽が持つ根源的な力と向き合うための新しい儀式を、今ここで始めたい。

 

 

2025.10.18 (Sat)

Feat.MATAWA vol.12

 

■Reservation : https://forms.gle/A5AWNY99yHn7BPrSA

■Place : 幡ヶ谷FORESTLIMIT

■Charge:ADV ¥3000+1d / door ¥3500+1d / U-22 ¥2000+1d

 

■LIVE

MON/KU + 町田匡

Yuri Umemoto

Reo Anzai (band set)

rilium

 

■DJ

tomo takashima(matawa)

nnnnnaaaooooo(サ柄直生)

category:COLUMN

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