アマルガム論 vol.2_否定と肯定の力学

vol.2_否定と肯定の力学

 

 

宣誓、私Sarenは「否定」を肯定することをここに誓います。──令和七年三月二十日

 

 読者諸君は、この宣誓を受けてどう思うか。「否定」の二文字に対して、どのような印象を抱いているだろうか。反対に、その対義語である「肯定」はどうか。とりわけ「否定」という語には、どこか冷たく、拒絶的で、ネガティブな印象を覚える人が少なくないはずだ。

 

 僕たちは日々、否定と肯定を繰り返しながら生きている。だがその営みの中で、「肯定」は善で「否定」は悪といった、極めて単純な観念が、無意識のうちに我々の思考を支配してはいないだろうか。

 

 肯定は、社会の中でしばしば歓迎される。教育の場でも、ビジネスの現場でも、肯定は調和を生み、人々のモチベーションを支えるものとして支持される。その一方で、否定はどこかしら「空気を乱すもの」「攻撃的なもの」として避けられがちである。

 

 ──果たしてそれは妥当であるか?

 

 近年、情報通信業をはじめとするITの発展に伴い、情報の量と速度は爆発的に増加し、たった10年足らずのうちに、僕たちはかつてないほど多様な社会を生きるようになった。価値観の違いを認知し、それを受け入れ、場合によっては称賛する姿勢が、この社会の基盤の一要素となっている。

 

 SNSのタイムラインには、あらゆる人の声が溢れている。容姿やジェンダー、家族の在り方や経済状況など、従来であれば公になることがあまりなかった、個人的な属性等が語られ、受け止められる場面が増えた。一方で、それらは次第に、「どこまで肯定されるべきか」という線引きの対象へと変質していった。

 

 肯定が重ねられることによって、語られることそのものが、社会の中で正当なものとして位置づけられ、次第にその先──制度の設計や法的承認の水準へと、議論の軸が移っていく。

 

 たとえば、選択的夫婦別姓制度やLGBT法案をめぐる議論では、個々の経験や違和感に対する「共感」や「理解」だけでなく、それらを「制度」としていかに扱うかという判断が、より強く問われるようになっている。

 

  つまり、誰かを肯定するという行為が個人の感情や倫理のレベルに留まらず、社会構造そのものを変えるべきか否か、という問いへと接続されはじめているのだ。

 

多分マツダとクラオカとコクエ − 03/28/2025 by Gaku Kokue

 

 そのような状況では「まだ判断できない」「慎重でありたい」という態度が、「政治的判断の回避」として読み変えられてしまうようなことも少なくない。結果として、これまでグレーゾーンとして留保されていた領域は急速に失われ、「どこまで肯定するか」が、個人の意見の問題ではなく、社会の立場そのものを問う争点へと移行しつつある。

 

 しかしながら、「肯定」が求められる場面が増える一方で、そこに至るまでに積み重ねられてきた「否定」の力学が、しばしば見過ごされてはいないだろうか。

 

 あらゆる肯定の連鎖には、発端がある。それは「語られた声」のみならず、「語られなかった違和感」や、「うまく言えないが違う」と感じる瞬間の累積によって生まれる。そして、そうした現状に対する不快を否定するという動きこそが、現状への問いを立ち上げ、別の肯定へと場を開いていく。

 

 否定とは、ただの拒絶ではない。それは現状に対して問いを投げかけ、軋みを可視化し、別の可能性を切り開くための行為である。もちろん、否定には暴力的な側面もある。分断を煽る言説や、根拠なき非難の応酬といった「暴走する否定」が存在するのも事実だ。

 

 だからこそ、「何をどのように否定するか」という判断は、常に慎重に行われる必要がある。否定は、扱いを誤れば不利益な破壊をもたらすが、適切に用いられることで新たな構築へと繋がる。

 

 無論、 『否定の為の否定』 は、論外である。

 

 歴史を見ても、革命も、科学も、芸術も──歴史に刻まれてきた変革のほとんどは、現状の否定から始まっている。時代を動かしてきたのは、いつも「問い直す」という行為だった。

 

 フランス革命では、国王と特権階級を頂点とする旧体制が「不平等」として否定され、近代市民社会と共和国の理念が生まれた。


 明治維新は、徳川幕府の封建的な政治体制を否定することで、中央集権と近代国家の構築へと舵を切った。


 科学革命においては、地球中心説や錬金術的自然観が否定され、観察・実験・検証という思考様式が確立された。


 20世紀のアヴァンギャルド芸術は、美や形式の固定観念を否定し、ノイズ、偶然性、政治性といった“逸脱”を美学の中に導入した。


 #MeToo運動では、長らく沈黙を強いられていた性被害の記憶が、公的な否定の声となって立ち上がり、制度や権力構造そのものに揺さぶりをかけた。 

             

 いずれも、「過去」──正確にはその過去が肯定され続けている「現在」を否定しながら、次の価値体系を準備し、異なる肯定の回路を生み出している。

 

 否定とは本来、次の地点へと進むための、最も深い真なる欲望に基づくものだ。各人の人生、それらが交わる社会、そして、そのすべてを包み込むこの世界──それらを真に肯定したいのであれば、否定という行為は不可欠なのである。

 

 否定は、ただの通過点ではない。それ自体に価値がある。

 

良い感じに赤いフロア − 03/20/2025 by Gaku Kokue

 

 否定を選ぶとき、そこにあるのは結論ではなく、保留だ。同意も反論もしきれない、立場を取るにはまだ手がかりが足りない──そういったとき、人は「違う」とだけ言う。その言葉の輪郭が、世界との接点となる。

 

 否定は、対象を拒絶する行為ではない。むしろ、対象と自分との関係を再配置しようとする試みに近い。

 

 無自覚な肯定に対する、最小限の留保。あるいは、黙認の形をした合意からの距離を置く態度。語られた言葉にすでに収まりきらないもの。繰り返される価値に対して、どこか噛み合わない感覚。それらを整理する過程で、”否定”は姿を表す。ただし実質を伴う否定には、体力と気力を要する。それは、単なる意見ではなく、関係のあり方に抗う行為であるからだ。

 

 場に、構造に、制度に、そして沈黙に──

 

 一時的にせよ、角度を変えて向き合う必要がある。

 

 僕が「否定」を肯定すると宣誓するのは、何かを壊したいからではない。構造を一度静かに崩し、再び組み直すために、語りの手前に立ち返る、その身振りとしての否定だ。

 

 誰かの意見を上書きするためではなく、その意見の成立条件ごと見直すために、 一旦、「違う」と言わざるを得ないことがままある。否定とは、先回りの沈黙を避けるための手段である。「そういうものだから」という判断を下すよりも前に、「そうとは限らない」という余白を確保する。

 

 言い換えれば、否定は理解よりも前に配置される注意であり、同調よりも先に生まれる距離である。誰かの語彙をそのまま受け入れることと、別の語彙を選び直すこと。そのわずかな差分が、否定の始点になる。

 

 個人の経験においても、社会の運動においても、何かを変えようとする際の始点は、現状に対する疑念の声から始まる。だが、その声は「否定的」として無効化されることも少なくない。事実、その声には、前述した「否定の為の否定」が紛れていることが多分にあるからだ。

 

 しかし僕は、その疑念が産声をあげる瞬間を信じたい。たとえそれが、まだ言葉になりきらないものであっても。

 

 現状に対しての、実質が伴う真なる否定の先に、良質な肯定は存在する。

 

illequalと − 03/27/2025 by Gaku Kokue

 

否定は、成長を促す。少なくとも僕にとって、それは何度も、そうだった。

        まだ見ぬ未来を最大限肯定するために、適切に否定をしたい。

                    だから僕は、最大限に否定を肯定する──

 

 Saren

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