轟音の美学─Deftones『private music』Review(後編)

私的な重さ、あるいは〈夢の重力〉について

 

 

 

20年代以降のネオ・シューゲイズの潮流において影響源となっているオルタナティヴ・メタル・バンド、Deftones。歴史的名盤『White Pony』の発表から四半世紀が経った今年、満を持して10枚目となるスタジオ・アルバム『private music』をリリースした。

 

メタルやオルタナティブ・ロックの固定観念を崩すかのようなアプローチで強い存在感を長年示し続けてきた彼らの最新作を、スタイリストでありながら長年さまざまな音楽を聴き続けてきたTatsuki Itakuraによる前後編のロング・レビューにて紐解く。前編では「轟音という美学」について整理と再考を試み、後編では『private music』について、過去作との比較や2020年代という時代背景との呼応、ポスト・ジャンル時代における轟音の在り方、「オルタナティブ・ミュージックにおけるカウンター」としてのDeftonesなど、さまざまな視点から紐解く。

 

Text : Tatsuki Itakura / イタクラタツキ

Edit / preface : NordOst / 松島広人

 


 

5. Deftones──深淵に沈む音響

 

Deftonesは“ニューメタル”の括りで語られることが多いバンドですが、実際に彼らが提示していたのは、オルタナティブ・ミュージックにおけるカウンターであり、深淵へと沈み込む轟音でした。それはシューゲイズやポストロックとも接続するサウンドデザインで、だからこそ今も世代を超えて再評価され続けています。ここではDeftonesの過去アルバムから2作を取り上げ、その轟音の美学を補強します。

 

 

『Around the Fur』──逃避の爆音

 

1997年の『Around the Fur』収録 “Be Quiet and Drive (Far Away)” は、その象徴です。轟音は「遠くへ行きたい」という切実な願望とともにあり、現実から逃避する装置として響きます。未来へ走り抜けたSwervedriverに対し、Deftonesは現実から深く沈み込む轟音を描いたのです。

 

 

『White Pony』──深淵のノイズ美学

 

2000年の『White Pony』では、轟音の深淵性が決定づけられました。“Change (In the House of Flies)”に響くのは怒りの爆発ではなく、孤独や逃避を翻訳する深い海の音響。轟音が「心の奥へ沈む」ための手段となったことで、Deftonesは独自の道を切り開きました。

 

クラブ的身体性との交差

 

さらに特異だったのは、その轟音が強烈な身体性を持っていたことです。ダウン・チューニングされた低音はクラブのサブベースのように身体を震わせ、陶酔感を生む。音の壁がノイズでありながら、同時にクラブ的快楽を生む交差点となっていたのです。

 

畠中実がサウンドアート論で繰り返し論じてきた音に包まれる身体という感覚を参照するなら、Deftonesの轟音がクラブ的身体感覚と交差するのは、まさにその現代的リアリティゆえだと言えるでしょう。Deftonesの轟音は外に爆発するのではなく、深く沈む。その体験を通じて、轟音は「哲学」へと昇華されていきました。

 

6. 『private music』──Deftonesが更新する現在形

 

2025年、Deftonesが放った最新作『private music』は、彼らの轟音美学をさらに拡張し、過去のキャリアを束ねながらも未来を見据えた作品になっています。

 

タイトルが示すように、『private music』は「個人的な音楽」。轟音はアリーナの爆音から離れ、イヤホンや自室のスピーカーで鳴ることを前提に再定義されていました。そこにはWisp的な「ベッドルーム感覚」と、Deftonesの「深淵の美学」との交差が確かにありました。アルバムの中で個人的に印象に残った曲を振り返ります。

 

 

my mind is a mountain──ネオシューゲイズの記憶

 

アルバム冒頭を飾る“my mind is a mountain”は、そのタイトルからして象徴的です。ここにはAmusement Parks On Fireの光の轟音や、ネオシューゲイズが提示した「上昇感覚」が明確に刻まれています。分厚いギターの層が立ち上がり、そこにChino Morenoの声が柔らかく重なる。霧の中から光が差し込んでくるような感覚。轟音は圧力ではなく、むしろ精神を上へと導く磁場になっています。2000年代にAPOFを夢中で聴いていた僕からすると、この曲には強烈な既視感がありました。轟音が未来を照らし、リスナーを引き上げていくあの感覚が、Deftonesの手で再び鳴らされていたからです。

 

 

locked club──疾走の回帰

 

続く“locked club”では、Swervedriver的な「疾走の轟音」が蘇ります。疾走するリフとビート、そしてサビで炸裂する爆音。ここでは轟音が沈むのではなく、リスナーを強制的に走らせる推進力として作用していると感じました。Deftonesは深淵のバンドであると同時に、轟音を疾走の美学へと変換することもできる。その柔軟さが、このアルバムをセルフトリビュートに終わらせず、更新の場にしています。

 

 

infinite source──Wisp的な共感

 

アルバム中盤の“infinite source”では、Wisp的なアプローチが顔を出します。ギターは飽和しているのに、声は奥に引っ込み、メロディは儚く揺らぐ。轟音は攻撃ではなく、共感の膜としてリスナーを包み込む。

 

ここで感じるのは、Deftonesが現代的な轟音の感覚──SNS的な即時共感──を意識的に取り込んでいるということです。TikTok的な拡散を狙ったわけではないでしょう。しかし、音の設計は確実に「孤独なリスナーの耳元で鳴る轟音」になっている。まるでDeftonesが、Wispの世代に手を差し伸べているかのようでした。

 

 

milk of the madonna──エモの再解釈

 

そして“milk of the madonna”では、エモやスクリーモ的な熱情が顔を出します。過去のDeftonesの曲にも見られた切実な叫び、感情をむき出しにする歌声、そこに絡み合う轟音の嵐が広がっていました。ここでの轟音は、深淵でも光でもなく、むしろ「痛みのエネルギー」として作用しています。

 

7.『private music』──個人的轟音の到達点

 

アルバム全体を通して浮かび上がるのは、轟音が「Public」から「Private」へ引き寄せられている事実です。アリーナやフェスでの爆音ではなく、イヤホンや自室のスピーカーで聴かれることを前提とした音像。そこには確かにWisp的な「ベッドルーム感覚」がありました。

 

このアルバムは、Swervedriverの疾走、APOFやAstrobriteの光と過剰、Deftones自身の深淵、そしてWispの共感──それらを総体として束ね、2025年のリスナーに開かれています。だからこそ、多くのアーティストが影響源としてDeftonesを名前に挙げているのではないか。今年9月にトロントで行われたSystem of a DownとDeftonesのジョイント公演に、WispはPolyphiaと共にオープニングアクトとして出演し、世代を超えた轟音の連続性を舞台上で体現する出来事となりました。

 

Deftonesがなぜここまで長く参照点であり続けるのか。その理由の1つは、彼らが常に「オルタナティブ・ミュージックにおけるカウンター」であり続けたからだと思います。

 

8. ポスト・ジャンル時代の轟音

 

つやちゃんが先日自身のnoteに投稿していた “Post-Genre Aesthetic” の視点を借りれば、現在は「ジャンルの時代は終わり、作品は美学・世界観で語られる」時代です。

 

Deftonesの美学とは何か──解釈は人それぞれですが、僕にとっては「肉体と感情の内面化、影の中で深く響く轟音」でした。そしてそれこそが、今のZ世代の音楽家やリスナーに鋭く刺さっているのだと感じます。

 

最後に強調したいのは、轟音の意味は世代ごとに変わっても、その必然は変わらないということです。走らせ、照らし、過剰に溺れさせ、深淵に沈め、孤独を包み込む──方法は違えど、音響は常に「遠くへ連れていく力」として響いてきました。

 

private music』が示したのは、この轟音の美学がこれからも更新され続けるということ。遠くへ行きたいと願うとき、轟音はきっと、僕たちのそばで鳴り続けます。

 

前編へ:https://avyss-magazine.com/2025/09/12/63685/

 

 

✍️ イタクラタツキ

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