轟音の美学─Deftones『private music』Review(前編)

私的な重さ、あるいは〈夢の重力〉について

 

 

 

20年代以降のネオ・シューゲイズの潮流において影響源となっているオルタナティヴ・メタル・バンド、Deftones。歴史的名盤『White Pony』の発表から四半世紀が経った今年、満を持して10枚目となるスタジオ・アルバム『private music』をリリースした。

 

メタルやオルタナティブ・ロックの固定観念を崩すかのようなアプローチで強い存在感を長年示し続けてきた彼らの最新作を、スタイリストでありながら長年さまざまな音楽を聴き続けてきたTatsuki Itakuraによる前後編のロング・レビューにて紐解く。前編では、まず「轟音という美学」について、Wispなどのネオ・シューゲイズなどさまざまなバンドを例に挙げつつ整理と再考を試み、後編では『private music』の内容へ多角的に迫ります。

 

Text : Tatsuki Itakura / イタクラタツキ

Edit / preface : NordOst / 松島広人

 


 

1. 轟音の美学──逃避・静寂・解放のプロセス

 

「轟音」という言葉は、音楽について語るときに多用されがちな表現です。しかし、僕にとっての轟音は、大音量やノイズそのものではなく、「身体と意識の両方を別の次元に連れていく力」のことを指します。それが僕自身の音楽体験の核でもありました。

 

轟音を「美学」として考えるとき、まず浮かび上がるのは「外に向かう衝撃」と「内に沈む音響」の二種類です。前者はハードコア・パンクやメタルに典型的で、社会や他者に叩きつける運動と捉えられます。後者はシューゲイズやポストロックに見られるような、自己の内面に閉じこもる沈潜です。

 

しかし「轟音の美学」はこの二項対立に収まりません。僕が音楽を通じて感じてきたのは、「逃避 → 静寂 → 解放」という心理的プロセスです。音の壁はまず現実からの逃避を可能にし、やがて思考を止めるほどの静寂を生み、最後に解放を与える。このサイクルこそが、僕にとっての「轟音の美学」でした。

 

そして、この美学は世代ごとに姿を変えてきました。90年代にDeftonesが示したのは“肉体的(かつ現場的)な深淵への沈降”でした。2020年代を代表するシューゲイズ/グランジゲイズのアーティストであるWispが提示したのは、SNSとヘッドフォン文化に根ざした“共感の轟音”でした。同じ轟音でも、リアルとバーチャルでは鳴らされ方も受け止められ方も全く異なります。

 

Deftonesの『private music』を読み解く上で、「轟音の美学」を見直すことには意味があります。それは単なる爆音でもノイズでもなく、常に「逃避」「静寂」「解放」を更新してきた音の哲学だからです。これは僕にとっての轟音の美学であり、同時にDeftonesを通じて見えた音楽の聴かれ方の変化の記録でもあります。

 

 

2. Swervedriver──疾走する轟音の原点

 

90年代初頭のイギリスで活動していたSwervedriverは、しばしばシューゲイズ・シーンの括りに入れられますが、実際にはMy Bloody Valentine(以下、MBV)やSlowdiveと並べて語ると、その異質さが際立ちます。MBVが「音響を海のように広げる」バンドだったとすれば、Slowdiveは「夢の霧のように沈潜させる」バンドでした。それに対してSwervedriverは、「轟音をエンジンに変えて疾走する」存在だったのです。

 

1991年の1stアルバム『Raise』は、まさにその「疾走する轟音」の美学を体現していました。代表曲“Rave Down”では、ノイズの壁が一直線のアスファルトの道となり、リスナーを強制的に走らせます。推進力としての音響──これこそが当時のUKシーンの中でも独自のものでした。

 

多くのシューゲイズ・アーティストが“内向きの逃避”を描いたのに対し、Swervedriverは「外側への突進」を生んでいました。彼らの音を聴くと、夜の高速道路を全速力で駆け抜ける感覚が生まれる。轟音が「走る」ための言語になったのです。

 

彼らのサウンドにはMBV的な要素もありました。ディストーションで飽和したギター、ノイズを空間的に重ねる構築性。しかしSwervedriverの場合、それが「揺らぎ」や「没入」ではなく「加速」と結びついていた点が決定的に違います。例えば“Son of Mustang Ford”や“Sandblasted”にしても、どの曲も「走り続けるための轟音」になっている。轟音はリスナーを止めるのではなく、さらに遠くへ連れ去るドライビング・フォースでした。

 

この「疾走する轟音」という感覚は、アメリカ西海岸で活動していたDeftonesとも直接的な関係があるわけではありません。しかし、彼らの2ndアルバムの代表曲の1つである“Be Quiet and Drive (Far Away)”を聴くと、タイトルからして「走ること」と「遠くへ行くこと」が結びついているのが分かります。ここにはSwervedriver的なドライビングメタファーが、時代を超えて響き合っていました。UKとUSという別々のシーンで、ほぼ同時期に「轟音=ドライブ」という感覚が現れていたこと自体が興味深いのです。

 

Swervedriverの“Rave Down”とDeftonesの衝撃は、直接の影響関係ではなく、むしろ聴き手にとって必然的に接続される体験だと言えるでしょう。

 

また、Swervedriverが提示した「疾走する轟音」は、その後、クラブカルチャーやエレクトロニック・ミュージックの感覚とも重なっていきます。“低音の反復” が身体を揺らすように、彼らの轟音もリスナーを突き動かし続ける。轟音が生み出すのは「止まらない身体」でした。ロックとダンス・ミュージックをつなぐ萌芽が、ここには確かにあったのです。

 

一方、同時代のSlowdiveは全く逆の方向で轟音を鳴らしていました。霧のように広がるアンビエンス、音に沈み込む感覚。Swervedriverが「遠くへ駆け抜けるための轟音」を提示したならば、Slowdiveは「夢に沈むための轟音」を描き出した。外へ走る推進力と、内へ沈む静謐さ──この二つの極の間に生まれた磁場の中で、Deftones疾走沈潜の両義性を抱え込みながら、独自の轟音を形づくっていきました。

 

3. ネオ・シューゲイズ──Amusement Parks On FireとAstrobriteが示した光と過剰

 

2000年代、シューゲイズシーンは「ネオ・シューゲイズ」と呼ばれる再評価の波を迎えます。90年代にMBVやSlowdiveが築いた神話は、ある時期にグランジやブリットポップに押し込められたものの、インターネットの拡大とともに新しい世代へと渡っていきます。ここでは僕が聞いてきたAmusement Parks On FireとAstrobriteについて、Deftonesと接続します。

 

この2組は、轟音の使い方において正反対のアプローチを取っていたと言っていいでしょう。Amusement Parks On Fire(以下、APOF)は轟音を「光」として響かせ、Astrobriteは轟音を「過剰」として提示しました。つまり、同じネオ・シューゲイズ・サウンドの中でも、轟音の美学を真逆に振り切っていたのです。

 

 

Amusement Parks On Fire──轟音を「光」に変える

 

APOFは2004年、当時18歳のMichael Feerickによって始まりました。セルフタイトルのデビュー作は、分厚いギターを重ねながらも、メロディが前景化しているのが特徴です。普通、爆音はメロディを飲み込み、聴き手を壁の中に閉じ込めてしまいがちです。しかしAPOFではむしろメロディが押し上げられ、光の束として響く。

 

例えば “Venus In Cancer”。轟音が満ちているのに、そこには鬱屈ではなく未来への明るさがある。霧を突き抜ける朝日のように音が広がっていく。Swervedriverが疾走感で未来へ突き進んだのに対し、APOFは光のサウンドで未来を照らし出した。方向は違っても、両者は共に「轟音を未来志向へと変換した」存在でした。

 

 

 

Astrobrite──轟音を「過剰」に推し進める

 

一方でAstrobriteは、轟音を「過剰」にまで肥大化させました。Scott Cortezによるこのプロジェクトは、彼がLoveliescrushingなどのノイズ・ドリームポップの経験を経て生まれたもので、代表作『pinkshinyultrablast』(2002)と『whitenoise superstar』(2007)は、轟音の極点を示しています。

 

『pinkshinyultrablast』は、重ねに重ねられたギターが音の洪水のように押し寄せ、メロディはかすかに顔を出すのみ。圧迫感と同時に甘美な恍惚をもたらす体験でした。続く『whitenoise superstar』では、声すら遠くに追いやられ、轟音の層に吸収されていく。人間的な輪郭は消え、音の渦そのものが主役となる。この「声が景色に溶ける」感覚は、Astrobriteの到達点だと思います。

 

はじめは騒音のようにしか聴こえなくても、聴き続けるうちにその過剰さが逆に静寂をもたらす。音の密度が心を無にし、浄化に至らせる。轟音の美学が「行き過ぎることで解放に変わる」ことを教えてくれるのが、この2作でした。

 

ここで面白いのは、Astrobriteの過剰な轟音が後にインターネット世代の「音を浴びる快楽」とも接続していくことです。イヤホンとともに、YouTubeやストリーミング・サービスに最大音量で没入する、あるいはトランス状態に入る。こうした体験はAstrobriteが先取りしていたのではないでしょうか。

 

光と過剰──轟音の多様化

 

APOFとAstrobriteを並べると、轟音の多様化が鮮やかに見えてきます。前者は轟音を希望の光に変え、後者は轟音を過剰に肥大化させて快楽に変えた。いずれも単なる音量の大きさから解き放ち、音の美学へと進めた存在でした。

 

この多様化は、後にDeftonesの深淵やWispの共感へと受け継がれていきます。轟音は時代やアーティストごとに翻訳される──その柔軟さを2000年代半ばに提示したのが、僕にとって、APOFAstrobriteでした。

 

 

4. Wisp──新世代の轟音

 

2020年代半ば、シューゲイズはリバイバルを越えて「新しいクラシック」になりつつあります。その中で現れたのがWispです。

 

Spotifyでは“Your Face”が現在まで、1億4千万回以上の再生を突破、TikTokでも膨大な拡散を見せ、「泣ける」「遠くへ行きたい」といった即時的な感情表現とともに受容されました。

 

ベッドルーム発のノイズ

 

Wispの音は、リハーサルやライブではなくベッドルームから生まれました。ラップトップとDAWを通じて生まれるその音響は、大きなスタジオの厚みではなく「個人の記憶の残響」として響く。大きな会場に向けるのではなく、リスナー一人ひとりの孤独に寄り添うものでした。

 

TikTokと「短い切り取り」

 

Wispの音楽が急速に広まった背景には、TikTokというプラットフォームの構造があります。数秒のフレーズが動画に重なり、即座に「泣ける」「分かる」といった共感を呼び起こす。このスピード感は従来のアルバムレビューやライブ批評にはなかったものです。

 

重要なのは「短い切り取り」で轟音が受容される点。曲全体ではなく一瞬の爆音が、そのまま音楽の印象として拡散される。90年代の轟音がライブ体験を基準にしていたのに対し、Z世代の受け止め方は根本的に異なっています。

 

共感としての轟音

 

WispのサウンドはAPOFの光やAstrobriteの過剰を内包しつつ、それを「泣ける音」として統一しました。Deftonesが「深淵の轟音」でリスナーを解放したように、Wispは「夢想的な音響」で孤独を癒す。世代も文脈も違えど、轟音が「人を遠くへ連れていく音」であることは共通しています。

 

翻訳され続けてきた轟音、その連続性を最も象徴する存在こそがDeftonesです。次回の後編では、彼らの「深淵の轟音」から最新作『private music』までを追いかけます。

 

後編へ:https://avyss-magazine.com/2025/09/12/63687/

 

 

✍️ イタクラタツキ

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