アマルガム論 vol.1_直感ヲ愛ス

vol.1_直感ヲ愛ス

 

 

 直感をこよなく愛する。愛しています。それは、僕が生まれてから今この瞬間までに蓄積された因果律が、絶対的に存在していると信じているからだ。

 

 この直感が紡ぐ時間軸に身を委ねれば、運命がいかなる方向へ転ぼうとも構わない。上昇しようが堕落しようが、天国に歓迎されようが地獄へ蹴り飛ばされようが、生きようが死のうがーーたとえ昨日と酷似した今日が訪れ、それと同等の明日が続こうとも、ただ受け入れる。唯々諾々と。

 

 そして、この純粋な因果の流れから放たれる美しさーーそれは、時に残酷で、時に儚く、時に甘美で、時に無慈悲なまでに静謐な光を帯びている。その美しさに僕は感嘆せずにはいられない。oh, 美しい。嗚呼、beautiful…

 

居たけど知らん瞬間 –

0226/2025 by Gaku Kokue

 

 では、”愛する”とは一体何か。この疑問が氷解した時に初めて、”直感ヲ愛ス”ことが自らの理知となる。

 

 納得するために、僕は辞書で愛や、その語から派生する語句を辞書で引いてみた事がある。当然、Googleの世話になったこともある。そこで記されている定義はいつも、感覚的な要素に比重が置かれており、それらを読む度に僕は「だからその感覚がどういうモンなのか教えてくれよ!」と思うばかりであった。

 

 僕は、出鱈目に言辞を弄するのは好まない。然し、世の人々はいつも、愛の意味に於いての言を俟たない。まるで皆、愛の解釈が均一に一致しているかのように、口にしたり、書いてみたり、歌ってみたりしている。僕だけですか、それを履修していないのは。疑わしい。

 

 例えば、二年程前に読んだ、”エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、2020年”によると、”愛すること”とは、相手の成長を願い、その人自身のために発展していくことを支援する姿勢。そのような事が書かれていたと記憶しています。

 

 なるほど、それが”愛すること”ならば、それは感情ではなく行為であり、態度であり、実践であるということになる。改めて”愛する”とは動詞であることを痛感する。

 

 ならば、僕にとっての「愛する」とは何か。それを理解するには、まず各人における「愛」という名詞、その感覚を演繹的に定義する必要がある。そして、その定義から派生する行為や意思を遡及的に検証することで、初めて「自らの愛の感覚」を認識できるのではないか。

 

 愛とは、決してただ「ある」と言えるものではなく、只々「する」ことでしか実感できないものなのかもしれない。

 

 辞書の言葉が感覚的に偏るのは、僕たちが愛を「感じる」ものと考えすぎているからではないか。本当は、愛は「為す」ものであり、「作り上げる」ものではないのか。故に、”愛を育む”といった表現の仕方が存在するのであろう。

 

bros(mana online)等 –

0226/2025 by Gaku Koku

 

 直感を愛することもまた、それと同じだ。ふとした瞬間に訪れるひらめきを、ただの感覚的な衝動として流すのではなく、意識的に育て、鍛え、磨き上げる姿勢。それが「直感ヲ愛ス」ことの本質である。

 

 では、それをどうすれば実践できるのか。答えは単純で、しかし厄介だ。それは、時間をかけること、そして意識的に取り組むこと。フロムが言うように、愛は技術であり、学ぶことができるのならば、直感もまた鍛えることができる。”直感ヲ愛ス”とは、ひとつの習慣であり、訓練なのだ。

 

 何故、”直感ヲ愛ス”か。それは、直感こそが、自分だけの「自分」を形作るからだ。誰の言葉でもなく、誰かに教えられたものでもなく、ただ自分の内側から生まれるもの。それが直感であり、それを尊重することは、すなわち、自分自身の唯一性を認めることに他ならない。

 

 直感を愛するとは、他者との比較ではなく、自分という存在の輪郭を鮮明にすることだ。誰にもなれず、誰にもならないまま、自分自身であり続けるために。直感とは、そのための指標であり、羅針盤なのではないか。直感が示す道が、自分だけの道なのだから。

 

Hella MASSACRE –

0226/2025 by Gaku Kokue

 

 ”いつでも心のコンパスを 信じるんだ!

 – Sindbad Storybook Voyage Ride Through mixより

 

Saren

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