Kenjiがショート・フィルム「BLESSED」を公開

起伏の真ん中にあるものとどう付き合っていくか

 

 

皆さん、こんばんは。Kenjiです。建築の設計の仕事をしながら音楽や映像の作品を作ったりしています。

 

自己紹介も兼ねて、私は自分の感情的な性分に依存する制作が非常に多いです。個人的な問題でセルフネグレクトに陥ったことの記録として制作した「Edge of the City」(2021)、その後のほのかに上向いていく生活の期待感について歌った「Covers for Sex Magazine」(2022)、それらをスクリーニング作品としてまとめた「奇妙な海」(2023)など、ここ数年は特にその傾向が強く、あえてこういう言葉を使用すると繊細ぶっていた

 

 

 

 

怒り、憎しみ、悲しみ。マイナスの感情は個人の主題として今後も大きな存在やテーマである反面、それらは制作において非常に描きやすいという自覚も大いにあります。記号として”エモい”に括られることにも現れている気がする。そして時流とともに死語になる。私的なことなんだ、そんなことはどうでもいいんだと忌避しながらも上手くは逃げられない。個人の事情に対して酷い話だけども大勢からはそれが現実でしょうし。

 

 

2024年11月の現在、私は数年前に経験したセルフネグレクトの状態からは完全に立ち直っています。その時の一切はここにはありません。転職も成功して週末はゆっくり過ごせるようになった(前職がとにかく酷かった)、どん底だった反動から承認欲求が爆発したことでBlue Xp(mixシリーズ)やmemoir(パーティー)のような対外的な活動も出来るようになった、過程での制作に狭小ながらも認知の広がりが伴った。つまり、安定した。では、これらを経て起伏の真ん中に比重が大きくなったときに表現をどうするか。そこに大きな悩みが生まれるようになってしまいました。その手段を特に弁えていなかったからです。捉えやすかったものが薄らいだとき、自分の制作に意義が見出せなくなりました。今って何がしたいんだろうなという疑問がよく浮かぶようになりました。単純に制作の引き出しが少なかったのだと思う。

 

 

しばらくの時間のあと。では、この平らな部分、暑くも寒くもない温度、掴みづらい感触について描くことそのものを受け入れるしかないし、受け入れるべきだろうと考えました。安定したと言いつつ相変わらず波はあるのだし、露悪的な映像に優しい言葉が重なっていたり、その逆の関係性だったり。そこに生まれる天邪鬼なもの、割り切れないものを意味性を持たせることばかりに取り憑かれないようにして自然体で並べる作業が自分には必要だと思いました。

 

ですので、この「BLESSED」という作品に特定の意味はありません。ストーリーもないし、映像と言葉の接続は曖昧であるように意識しています。読み取れるわけのない文章の切替の速さはYouTubeで再生を停止することを前提とし、会場でのスクリーニング行為との相性の悪さが目立つようにしており、ある種の”軽さ”があるものとなればよいと考えています。言葉の提供にTarah Kikuchi、uku kasai、川の3名を招きました。彼らの言葉にも相互の関係性はなく、簡単なキーワードのもとで自由に作詞をしていただいています。

 

 

ただ、視聴後にほんの少しだけ柔らかい空気が広がってほしい。差し引きの結果に微量の綺麗なものがあるぐらいが理想。そのバランスにしか生まれない安心感にしばし身を預けていたい。預けれるようになりたい。温かい嵐とその後の街、みたいな?そんな景色にこの映像を御守りみたいに持つ自分がある感じ。それが詩的であれば尚のこと良い。ロマンチストなので。

 

 

‘BLESSED’ (2024) FILM by Kenji

Screenplay: Kenji

Direction: Kenji

Words: Kenji, Tarah Kikuchi, uku kasai, 川

 

Kenji https://www.instagram.com/supernalsofttouch/

Tarah Kikuchi https://www.instagram.com/tarah_kikuchi/

uku kasai https://www.instagram.com/urayam_i/

 https://www.instagram.com/sssqplioed/

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